青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

社会科の課題設定と評価、見直してみませんか?

 

 中学校の社会科実践でこれまでにもたくさんの本を出している川端裕介先生の最新本。裏の参考文献を見ると、小塩編著の『非認知能力』やニューマンらの『真正の評価』など、最新の評価や認知に関する項目も踏まえた内容となっています。(裏の参考文献を見るだけでも一見の価値ありです)

 この本で特に強く指摘されていることは(特にニューマンらの『真正の評価』で強く主張していることであるが)、「評価の一番の目的は、生徒が学び手として成長するために支援すること」であり、「生徒一人一人の学びの姿を評価に生かし、評価を次の学びに生かす」ことである。つまり、ゴールのための評価ではなく、プロセスのための評価とすべきであり、そのための課題設定が求められる、ということである。

 そのために設定されている問いが非常に興味深い。例えば

  • なぜ費用がかかるのに、朝廷によって大仏がつくられたり、都の場所が何度も変えられたりしたのでしょうか?
  • 人口が減少する時代に、県や市町村が人口の社会増を目指すのは正しい選択なのでしょうか。
  • 江戸時代中期の暮らしは、百姓にとって良くなったと言えるでしょうか。江戸時代の初期と比べて判断しましょう。

 中には、生徒の学びの姿をふまえて作られた問い(縄文時代は豊かな食料があったのに、なぜ弥生時代になると作るのが大変な稲作が広まったのでしょうか)もあり、こうした学習者目線での評価や問いを構成することの、重要性が示されています。

 

 

 もちろん、こうした問いを作るには、実際に生徒に投げかけてみてブラッシュアップする必要があり、そういう意味では経験が求められると思います。しかし、まずはこの本に書かれている問いを投げかけてみることから始めてもよいと思います。ただし、その際に注意することは、先生は答えを持っていても、安易に生徒に示さないことです。「とりあえず教科書探してごらん」「教科書に何と書いてある」「じゃあ、それがキーワードかもしれないね」「そのキーワードをうまく文章にしてみよう」、こんなプロセスを踏みながら、生徒に学びのプロセスを追体験させる、そんな土台づくりになるような本となっていると思います。

 それをくり返すことで、生徒が「分かる」ようになり、社会科が「楽しい」ものになるのではないでしょうか。そんな様子が伝わってくる一冊となっています。

中等教育社会科教師の専門性育成

 

 卒業した母校の先生方が執筆している、中高の社会系教科の授業をいかに作り、いかに教えるかについての本。とりわけ2022年より社会系科目は高等学校で大幅な科目再編が行われることもあり、全面改訂が行われたようです。

 相変わらず我が母校らしい、それぞれの先生方の個性の光るオムニバス形式の本になっていますが、一つ一つのテーマは、現代の課題に即した編成となっています。

 特におすすめなのが第5章の渡部竜也先生の書いた「社会科の主な授業構成論」と第20章の堀田諭先生の書いた「カリキュラム・マネジメントとカリキュラムづくり」。

 第5章は、学生の会話形式で、「よい」と考える授業(ここでは歴史授業を事例にしているが)が異なることが示される。その上で、「問題解決」「共感理解」「科学的探求」「討論」「学問的思考」、そして「知識伝授」、それぞれが「よい」と考えられる理由があり、課題があることが明示される。ここで重要なのは、生徒の学習文脈や学習背景、レリバンスなどによって、それらをうまく使い分けることだろう。そういう意味で、とても有意義なページとなっている。

 第20章は、カリキュラム策定においては、「文脈」「内容」「同僚性」「教育のビジョン」の4つが有機的に関連されて作られることの重要性が示されている。その事例として、中高それぞれの先生が、「総合」のカリキュラムをいかに構成したのか、について論じられている。一見すると社会科ではなさそうに見えるが、今次学習指導要領や、ニューマンの述べる「学校外の価値」という視点に注目すれば、こうした視点から社会科を捉えなおす視点も重要であると考える。

 その他、地理総合や歴史総合に関しては、いち早く文部科学省の指定を受け先行実践を行った神戸大学附属中等教育学校の先生が執筆しており、具体的な単元事例とともに地理総合や歴史総合の具体を知ることができる。

 これらのページを読むだけでも、この本には一読の価値があると感じる。

 もちろんこれ以外にも、それぞれの先生が具体的な事例を踏まえて、これからの社会系教科についてまとめているので、社会科の教員を目指す人の基礎研究として、またすでに現場で教えている先生にとっては、自分の実践を見直す機会となる本となるだろう。

ここ最近購入した本

忘れないうちにまとめておきます。まだ読んでる途中。

いわゆる「普通」からはみ出した生徒が、工藤勇一先生に出会い、自分をメタ認知できるようになって変わっていった、という本。大事なのは、一人の人間として認めてあげることだと思います。

実践研究で重要な質的研究の事例集。帰納法的に研究するとはどういうことか、が理解できると思います。


教育の本質は、自由の相互承認であると主張する苫野一徳先生の本。教育をいかに学問たらしめるか、を哲学的に述べた本になっています。
個人的には、教育学の先生方がこの本をどう受け止めるか、に興味がある。

『社会科研究』の論文を読みました

 今回の論文は、どの論文もめちゃくちゃ面白いです。

 (W先生の論を踏まえたものが多いからかもしれませんが・・・)

 その中でも、いくつかご紹介します。

 

 まず、岩崎圭祐先生の「論争問題学習に取り組みために教師教育には何が必要か」という論文。主権者教育という観点からすれば、論争問題学習を授業の中で扱っていくことは喫緊の課題です。しかし現在の教育では、様々な理由から社会科教師が論争問題を忌避する傾向(自分も含めて)が見られます。そうした状況の中で、論争問題学習をいかに学び、そして実践させていくのか、について、アメリカのヘスとペースの教師教育プログラムに注目して論じています。

 ものすごく要約すると、ヘスのような論争問題を取り扱うための「スキル」を育成し、とにかくやってみようというプログラムに加え、ペースのいう論争問題学習のリスクを知った上で、どうやったら論争問題学習が実施可能かという「ストラテジー」(戦略)を把握することが重要であることを指摘します。

 主権者教育を考える上で、論争問題学習を取り扱っていくことはますます求められていくと思います。とりわけリスクを理解するストラテジーはかなり重要である、と感じました。

 その一方、まだまだ自分が勤務している学校の文脈や歴史を教えているからかもしれませんが、大事だと分かってはいるけど、なかなか踏み出せない・・・というのが実態ですかね。個人的には、そうしたことをやるための事例集みたいなものを作ってくれるとすごくありがたいのですが・・・。

 

 

 

 

 次は、小野創太先生の「困難な歴史(Difficult History)」をどのように探究すべきか」です。この論文では、歴史を学ぶ意味として「批判的社会文化的アプローチ」に注目します。このアプローチに注目することで、バートンらのいう「社会文化的アプローチ」とワインバーグらのいう「歴史的思考」の双方を接続しながら、歴史を学ぶ意味をとらえさせることが可能であると指摘します。

 その上で、アメリカのエリザベス・ジェニングス・プロジェクト(EJP)を紹介し、その授業デザインを示しています。具体的には、マスターナラティブとカウンターナラティブを対比させ、それを資料の分析を踏まえながら探究させていくというものです。(この論文では、アメリカ北部では人種差別や隔離に関する問題は生じていないというマスターナラティブに対して、北部でも行われている事例を取り上げ、それについて考察させています)

 こうした授業は、歴史を学ぶ意味で重要な要素の一つである、歴史認識をめぐる社会的な論争や対立を現代まで通ずる社会問題として取り扱う社会科授業実践において、効力を発揮すると考えられる(例えば、アジアにおける歴史認識の違いなど)。そうした意味では、生徒に歴史を学ぶ意味を意識させつつ、現代社会の分析、過去の文脈を踏まえた歴史学習をする上で、この視点は重要な意味を持つと考えられる。

 ただし、これも個人的には実践カリキュラム(enacted curriculum)のレベルでいえば、まだまだ課題は多いなあ、と感じる。例えば従軍慰安婦や徴用工をめぐる問題は、社会的には重要な課題ではある。しかしそれを、マスターナラティブとカウンターナラティブで対比させて行う内容として取り扱う意味(文脈)があるのだろうか、と言われると、個人的には難しいなあ、と感じる。

 ただ、研究レベルとしてはセイシャスやヴァンスレッドライトのように、歴史主義と現在主義の中間点に位置づく、「歴史を学ぶ意味」を踏まえた研究と位置づけることができると感じる。

 

 

 

 最後に、西村豊先生の「学習文脈は高校生の歴史授業に対する意識にどのような影響を当たるか?」である。個人的に、全社学の研究大会のでも注目していた論稿だったので、今回社会科研究に掲載され、個人的にはすごく嬉しく感じます。この研究では、進路多様校(難関大進学、大学進学、短大・専門学校への進学、就職の4つが共存する学校)の生徒に「学習内容」「学習方法」「歴史を学ぶ目的」「歴史教師に求める授業」の4つについてアンケートを取り、生徒がいかなる学習文脈を持ち、それが生徒の授業意識にどのように位置づけられているのか、を調査したものである。

 この授業のリサーチアンサーを述べるなら、以下の通りとなる。

学習文脈は、生徒が「歴史教師に求める授業」に対して、自己の進路目標を達成する上で有益な歴史授業を望むようになるという影響を与える。そして、生徒が「歴史教師に求める授業」と元来生徒が重視している「歴史を学ぶ目的」が一致すれば学習内容に対する興味も高まるが、一致しなければ学習内容に対する興味は低くなる。

 

 この調査で注目すべきは、どの段階においても、生徒は歴史を学ぶ目的として、「知識や教養を身につける」「現在をより深く理解する」「過去から教訓を学び未来にいかす」の3つが重要であるととらえているという点である。その一方で、「歴史学者のような思考力を身に付ける」という生徒はほとんどいなかった点も注目される。

 つまり、生徒にとって、「歴史学の手法を学ぶ」ことは、ワインバーグの言うように「不自然な作為」であり、これを教えることを目標とした場合には、生徒の学習目的と乖離する可能性が高いということである。

 これは星先生の全社学の論文でも、教師が歴史学的な手法を学ばせたくても、生徒が受験という文脈の中で、歴史の知識を覚えることに転化させてしまうことが指摘されている。また、ワインバーグの論文においても、歴史学を学んだ学生が作る授業は歴史学的作法を重視するが、生徒の学習文脈にはあまり配慮しない。一方で歴史学を学んでいない学生が作る授業は、現代的な側面に注目したり、生徒の学習文脈に配慮した授業となる、という結果であった。ワインバーグはここに歴史教師のアイデンティティを求めているようであるが、個人的には、学習者優先というスタンスで見ていくと、むしろ歴史学を学んでいない学生ほど「よい」授業を作っていると言う事ができる。

 今回の調査は、それが明らかになったことにより、例えば受験勉強を意識した学校やクラスであったとしても、「現在の理解」や「教訓を学ぶ」ような授業アプローチをとっていくことが、生徒の「学びの意味」と合致し、歴史を少しでも学ぼうと感じてくれるようになるということが分かる。

 では、そうした授業にするには、どうしたらよいか。もちろん、「困難な歴史」を学ばせるようなアプローチもあるが、それはやはり高度だと思う。ではどうしたらよいか。それにトライしてみたのが、これから発表する予定のものとなります。

 その意味で、発表原稿にこの研究を盛り込めたことがすごく嬉しいです。とても勉強になりました。

歴史教育を考える2022

 毎年、年始に書いている今年の授業の指針。今年は指導要領が変わり、いよいよ歴史総合が始まるという記念すべき年になります。個人的には歴史総合を受け持ちたいのですが、果たして受け持てるのでしょうか・・・。

 

 歴史総合を考える時には、すべての歴史事象をやることは難しいので、大まかに年間指導計画や単元を、教師の側がデザインしていく必要があります。

 

 その際の指針を示しているのが学習指導要領です。例えば、歴史総合では「近代化」「国際秩序の変化や大衆化」「グローバル化」という大きな概念があり、それを授業では考えさせていくことになります。

 

 この他にも、「帝国主義」や「産業革命」など、歴史を叙述するために必要な概念をつかませながら、それを具体的事例に落とし込み、生徒にそれを考えさせたり記述させたりする活動が求められると思います。

 

 なので、年間指導計画や単元をデザインする時には、例えば、クラスごとに定期考査までの時間数を数え、その時間に合わせて、どこまで進めるかを決め、どんな概念を生徒に考えさせるか、ということが求められてくると思います。

 

 

 その時に、自分が注目している問いが「何」(What)という問いになります。歴史総合の授業とは、究極的には生徒に「近代化」「国際秩序の変化や大衆化」「グローバル化」とは「何か」を史資料を通して考えさせたり、記述させたりする活動だと自分は考えています。

 

 その上で、例えば「産業革命が近代化に与えた影響は何か」「国民国家の形成が近代化に与えた影響は何か」、こんな問いを生徒に示していくことになるのだと思います。(もちろん、基礎知識が備わっていればこの問いをそのまま、そうでなければ、具体的な事例に落とし込んで考えさせることになります)

 

 そうした意味で現在、「何」問いを考えることが、歴史学習にとっては重要だと思っています。「何」問いの特徴については、宗實直樹先生が『社会科新発問パターン集』の中で、このような効果があると指摘しています。

 

 ① ある事象について多面的に考えることができる

 ② ある事象について総合的に考えることができる

 ③ ある事象の本質について考えることができる

 ④ 導入で問うことで、その説明に対する事実を調べることを促すことができる

 

 もちろん、「何」問いには、単に事実的知識を問うているものもあります。例えば、「青森県で栽培が盛んな果物は何ですか」→「りんごです」のような問いです。岩田一彦先生の本でも、「何」問いは事実的知識を問うものだと位置づけられています。

 しかしここでいう「何」問いは、総合的事象を含んだ「何」になります。先に挙げた「近代化とは何か」は、これに該当します。例えば、「明治時代に日本が近代化を果たした要因は何か」と問えば、そこには政治的要因、経済的要因、外交的要因、文化的要因など、様々な事象が総合的に混ざり合っています。生徒は、そうした複数ある要因の中から、自分が重要だと考える要因を選び、それを記述します。そうすることで、「問い」としては一定の基準の中で回答することが可能となり、また、生徒それぞれで重要だと考える要因が異なるので、そこに解釈の多様性が生まれ、そこに議論の可能性が生まれます。

 このように「何」問いは、これからの歴史学習を考える際には有用だと言えるでしょう。

 

 

 しかし、「何」問いについては、森分孝治氏の批判を踏まえなければならないと思います。(ちなみに以下の本を参考にしています)

 

 

 森分孝治氏によれば、「何」説明が「説明」となるのは、例えば絶対王政とは何かの定義があり、定義の内容、すなわち、絶対王政の特徴・性格が示す事実がエリザベス時代のイギリスの歴史に見られることを指摘することにあると述べる。こうした既知の概念によって規定された説明を森分氏は「規定による説明」と呼ぶ。この説明は、内容豊かな概念による規定ほど、すなわち、より詳しく複雑な知識体系による限定ほど、より科学的となる。

 しかし、教科書に示されている事象(例えば「絶対王政」などの単語)は、概念の内容(理論)を明示せずに、その言葉を規定しているため、「説明的スケッチ」(不完全な推論・説明)となっている場合が多い。

 

 そのため「何」説明を扱った授業は、複雑な知識体系を知っていれば知っているほど、内容や説明は豊かになっていくが、そうでない場合(「説明的スケッチ」にとどまっている場合)には、授業自体が成り立っていかない可能性を示唆しているのである。つまり、「何」説明の場合は、知っている生徒同士だとよいが、そうでない場合は、何を議論してよいのか分からなくなってしまう、ということである。

 

 また、森分氏はこの著書の中で、深谷孟延氏の中学校歴史的分野「フランス革命明治維新」の授業を用いて説明している。この授業では、フランス革命明治維新を事例として比較したうえで、「明治維新は革命か」を生徒に討論させた授業である。 

 しかし、この授業では生徒は様々な調べ活動を経て、生徒なりに「明治維新は革命か否か」を考え、自分なりの「革命」の説明を試みている。しかし、この授業では基本的な条件や事実についての共通理解なしに討論されおり、「意見」の出し合いで終わってしまっていることを指摘している。

 

 つまり、「何」説明を扱った授業は、ともすると

 ① その概念に対する知識や説明が不完全な場合には、生徒が説明をすることが困難になってしまう可能性

 ② 解釈は多様になるが、意見の出し合いで終わってしまう可能性

 

 を示唆しているのである。

 

 

 とはいえ、歴史解釈を多様にし、かつ知識を組み合わせて総合的に考察させることができるメリットのある「問い」であることに間違いはない。では、どうしたらよいか。個人的には

 

 ① 歴史学や歴史事象に対する説明を豊かにするのではなく、社会の見方・考え方を踏まえた概念的知識を意識づけるようにする。

 ② 「なぜ」問いの言い換え*1としての「何」を活用する。具体的には、「条件は何か」「影響は何か」など。

 

 が重要だと考えています。

 

 

 現在は、こうしたことを踏まえながら、通史や教科書という時系列的な制約の中で、社会の見方・考え方を活用した歴史授業を構想しています。

 

 

 

 今年は、生徒が歴史の授業を通して、どうそれを意味づけたのか、それを追っていく授業ができる1年にしたいと思います。

 ちなみに、授業ごとや単元ごとに生徒に感想を書かせるだけでも、生徒がどう意味づけたかが分かるし、それで「うまくいったな」とか、「ここは改善した方が良いな」が分かるので、おすすめです。

 

*1:詳細は、森才三「社会科授業における「なぜ」発問の実践方略 : 「問いの対象」と「問いの観点」に注目して」(『社会科研究』82号)参照

10月以降に買った本

 

 1945年―60年の続編。この本を読むと、暴力的な左翼運動は、社会党系とともに葬られ、本来暴力的な革命運動を肯定していた共産党がその難を避けて現在まで生き延びている様子が分かります。

 この本では、格差の拡大・固定と共に注目されている左翼的な運動に対して、歴史の側から運動が失敗した理由と共に、今後起こり得るであろうことを教訓的に提示しています。

 

 

 北条義時に関する概説書。北条義時がいかにして政治の実力者になっていったかを歴史学的なアプローチから描かれています。

 

 

 

 

 学習指導要領で示されている歴史総合・日本史探究・世界史探究の授業はどうなっていくのか、そんなデザインが示されている一冊です。

 概説の部分が非常に分かりやすいので、一読の価値あり。特に、歴史学習における「問い」の概説と、実際に生徒に「問い」を表現させた歴史総合の実践は、歴史学習における「問い」はどうあるべきか、について考えさせられます。おすすめです。

 

 男性がヒゲを生やすことがよしとされた時代(明治時代)→よくないとされた時代(大正時代)→よしとされた時代(戦時中)→よくないとされた時代(高度成長期)の一連の流れと、その背景が論じられています。

 ポイントは、権威主義的か、民主主義的か、そんな感じがしました。歴史を見る視点としてはとても面白い本だと思います。

 

 

 第29章の歴史概念を学ぶを読むために購入。歴史概念には、「革命」「帝国主義」などの本質的概念(一次概念)と、「解釈」「時系列」などの方法的概念(二次概念)に大きく分けられており、歴史総合ではこうした視点で、歴史学習をしていこうという理論的な部分や背景が見えてきます。

 これからの歴史学習を考えていく上では、重要なことが書かれています。

 

 お茶の水付属小で「市民」の授業を中心に研究している岡田先生の論文をベースにした本書。特に、客観的に評価できない政治的事象に対する子供の発言や記述をいかに評価するか、授業をどうすべきか、というのが実際の授業場面や子供の回答を踏まえて論じられています。特に「審美」という概念についての理解が深まります。