青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

書評 『社会科授業づくりの理論と方法』 (渡部竜也・井手口泰典著)

 

 

 

 本書は、1978年に森分孝治氏が出版した『社会科授業構成の理論と方法』で提唱されている科学的探求学習を、渡部竜也氏が独自で解釈し改良を加えたものである。

 社会科教育学の世界では人口に膾炙している、森分孝治氏の科学的探求学習。社会科教育学では知らない人はいない名著である。これを評者なりに要約すれば、「社会諸科学の視点」を利用し、社会的問題を生み出す複雑な社会背景を、「なぜ(Why)」という「問い」を用いて、生徒へ問いかけ、議論させていくことの重要性が指摘されている。

 ただし、渡部氏は森分氏の科学的探求学習が、従来「知識の構造図」に重きをおいたものとなっていることの問題点を指摘し、科学的探求学習の「問いの構造図」に注目した授業づくりを提唱している。

 本書を読んで、筆者が特に注目したのは以下の二点である。

 一点目は、「本質的な問い(Essential Question)」(以下、EQ)を定義づけ、それを歴史学習に取り込むことで、歴史学習を「『本質的な問い』を考えるための事例研究」(同書p.124)へと転換しようと目論んでいる点である。

 氏は、EQを以下のようにまとめている。

 

 はっきりとした解答はないオープンエンドな問いで、かつ主権者として、市民として、私たちが社会で生きていくために、考えていかなければならないような性質の問い(同書p.125)

 

 その上で、以下のような具体事例をあげている。

 

 例えば、「なぜ差別は生まれるのか」「どうして暴力の連鎖を断ち切ることができないのか」「独裁者が必要なときはあるのか。あるとすれば、それはいつか」「どんなとき、私たちの社会は外との付き合いをやめて閉鎖的になるのか」「社会が外から閉ざされることのメリットとデメリットは何か」「文学や芸能を庶民が楽しめるための条件は何か。逆に私たちは何を失うと、これを失ってしまうのか」(同書p.124-125、134)

 

 EQは、今回改訂された学習指導要領の世界観の、とりわけ「単元を貫く問い」を考える上で、非常に示唆的である。

 

 

 ただし、ここで注意しなければならないのは、氏は学習指導要領にある「内容」ありきのEQには批判的であるということである。

 

 

 例えば、中学校社会歴史的分野では、森分孝治氏の著作に掲載されている、「江戸時代が約260年も続いたのはなぜか」が「単元を貫く問い」の例として示されている。これを問うこと自体は大切だと筆者は考えるが、その問う目標が、その時代の特徴を網羅的に理解するためであってはならない。*1

 

 

 この問いでは(評者なりにEQを後付けしてみると)、「長期政権ができる条件とは何か」あるいは、「長期政権を作るためには、いかなる権力を用いればよいか」であると考える。同じEQを投げかけるにしても、ここまで踏まえて生徒へ問いかけなければ、EQとはいえないのである。

 

 

 二点目は、渡部竜也氏から科学的探求学習を習った現役の社会科教師が、勤務校の中学生に実際に教えたもの(ゲートキーピングしたもの)を提示していることである。ここでは、中学校1年生の歴史的分野において、古代からの通史学習の中で、「貨幣流通」について、実際の授業プランを示していることにある。もともとの主発問(MQ)は、「なぜ、古代において貨幣が発行されたにもかかわらず貨幣の流通は衰退し、中世においては外国の貨幣が流通したのか」という問いであった。しかし、実際の現場では、古代の単元で「なぜ古代においては、貨幣が発行され、流通されたにも関わらず、その後あまり流通しなくなってしまったのか」を学習し、その上で、中世の単元で「なぜ、平安時代末・鎌倉時代に再び貨幣が流通するようになったのだろうか」と2つの中心発問に分けている。本書では、この発問だけでなく、その発問を提示するための工夫(例えば、和同開珎と乾元大宝を示し、どちらが古い貨幣と思うか)や、生徒に飽きさせない努力(一遍上人絵伝などの絵巻を読み解かせる)など、授業実践するための工夫なども掲載されており、科学的探求学習が実現可能であることを示している。

 

 

 ただし、ここでも気を付けなければならないのが、この授業で提示されているプリントの内容(知識)ありきではない、ということである。本書を詳しく読まずに、提示されているプリントや板書計画(同書p.212-221)だけを読み解かれると、例えば歴史教師(特に高校の先生)の中には、「ああ、これって、試験によく出るテーマ史をやってるだけでしょ」→「こういう内容は、進学校でしかやれないよね」と誤解されてしまいかねない。重要なのは、「問い」のつくり方であって、その「内容」ではないのである。

 

 

 実は、ここが難しいところである。渡部氏もしきりにその辺りは警鐘を鳴らしている。

 

 ここで誤解してはならないことは、問いの構造図をつくるにはテーマとなる事柄について莫大な知識が「事前に」必要となるという思い込みをもたないことだ。…こうした問いの構造図からつくる授業の特徴は、問いの構造図をつくることと教材研究とが「同時に」行われる点にある。(同書p.78)

 

 「なぜ」の問いに対しては、仮説をずらずらと量的に並べることで対応していくことはできる。…だが、それらの全てを紡いでまとめあげ、因果関係を体系的に整理することは、ほとんどの人ができないように思われる(同書p.186)

 

 こうした授業計画(第8章で論じられている「なぜ」に対する回答を並列的に並べる授業)になってしまったより根源的な要因として、そもそも教師側に仮説間のつながりを体系的に「紡ぎ出す力がない」こと、または「紡ぎ出すことの必要を感じていない」ことがあるのではと感じており、相当の危機感を覚えている。(同書p.184)

 

 

 

 この点については、筆者にも心当たりがあることなので自省しなければならないと思っている。

 

 

 しかし、筆者の経験を一つ言わせてもらいたい。それは筆者が大学院生の時の頃。渡部氏にこの授業を「問いの構造図」に基づいて授業改善してみなさい、と言われた。中高と暗記は得意で、知識を覚えることを苦としておらず、大学でも歴史学を習ってきた筆者は、完成されることができなかった。どうやって作ったらよいのか、分からないのである。もちろん、歴史に対する知識は膨大にある。本も読んでいる。しかし、その組み立て方が分からないのである。

 

 

 筆者なりに要因を考えると、筆者は「教科書で」授業を作ろうとしていたこと、筆者が読んだ本の内容(知識)をいかに盛り込もうか、を考えていたことにあると思う。

 

 

 おそらく歴史の先生の多くは、ここに「無自覚」なのではないだろうか。それは、第2章に描かれている、内容をいかに「網羅的に」盛り込んだ授業を作ろうか、と考えているに等しい。こうした状況が拡大再生産されているようでは、今回の指導要領改訂も絵にかいた餅になってしまうだろう。

 

 「知識の構造図」ではなく、「問いの構造図」。そして、その「問い」は、「本質的な問い」であるべき。特に歴史教師は、そのことに「自覚的」になりながら、自らの授業を見直し、生徒への「問いかけ」をしていかなければならない、そう思わせてくれる一冊である。

 

*1:ためしに筆者も、網羅主義の授業をした後に、レポートの問いとして投げかけてみたが、結果として、同書p.141に書かれているような「内容を網羅的に収集して羅列して、最後に安っぽい感想を述べて終わり」のレポートとなってしまった