青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

金八レビュー第12話〜クラス再崩壊

 いやあ、先週からなんですが、すんごい重い話になってきました。いろいろと昨日考えたんですけど、「死」を扱うと、ドラマ自体感動を呼ぶことは可能なのですが、それは両刃の剣で逆に見ているひとをドン引きさせてしまう可能性を秘めているのです。今回はその後者のほう。
 僕は学校主体のドラマに死を持ち込むべきではないと思いました。それは、学校における死、とりわけそれが自殺だった場合、そこに関わる人間に甚大な精神的被害を与える一方、その人個人、その周囲の人々、そして学校の社会的な権威が低下する、という非常に大きな問題をはらんでいるということです。もちろん、偏見とかをせず、人間的権威の低下を気にしないよ、という人々がいるのかもしれませんが、それはあくまで少人数であり、大多数の人は偏見の目で見らざるを得ない状況となるのです。人間は、とりわけコミュニケーションをあまり好まない日本人は他人をイメージでみがちな種族です。イメージは悪い方向へ繋がると、偏見を生みます。とりわけ、昨今のコンピュータの普及と情報氾濫とを絡めて考えると、日本人はますます相手をイメージで見るようになり、それだけ偏見も進んでいる社会なのです。
 そのような中で噂が一人歩きし、大袈裟な情報、それを鵜呑みにする人、それをめぐる意見の対立・・・、それがあの3年B組という、いわばクラスという小社会のなかで爆発してしまったのでしょう。
 崇史としゅう、どっちがいい悪いという次元ではありません。どっちも辛かったんです。それが互いに交錯しただけなんです。ドラマと言うマルチプレイの中だからこそ、こうして客観的に言えるものの、人間社会はドラマのようなマルチアングルではありません。だからこそ、思いが交錯し、そこに衝撃が起きるのです。人間は感情的になればなるほど、訳が分からなくなる生き物です。この感情と感情が交錯する、再び壊れたクラスを金八先生はどう立て直していくのでしょうか。


 とにかく、結論としては学校ものに「死」を取り入れることは、個人の中で他人の死と向き合うだけでも精神的な疲労は計り知れないのに、それが学校社会にもってくると、ああいう感情の交錯によってクラスが崩壊してしまうということ。それを防ぐ手立てはやっぱり「祈る」ことしかない、ということでしょうね。だからこそ、ドラマ自体があまりにも重過ぎて、視聴者をドン引きさせてしまう、ということですね。
 金八はいつからあんなに重いドラマになったのでしょうか?それから、今回は生徒の使い方がものすごく下手だな、うまい人を利用できていないな、そう思いました。つくづく勿体無いなあと思います。
 あ、でも今週のしゅうは先週より上手かった気がする。僕だけかな?
 あの問題だけで3月まで引っ張るのはやめてよ。それこそ、金八自体の権威が失墜するよ。ま、これも僕がイメージで金八を捉えている証拠なんですが。