青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

夏休み3日目続き

 その後、僕のわがままでラッセランドへねぶたを見に行くことに。初めて祭り前のねぶたを見た。高総文の関係か、やたら学生さんが多かった。で、いろいろと写真を撮っては来たんですが、僕のパソコンはナローなんで一枚だけが時間的に、重さ的に限界なんで、1枚だけ掲載します。写真は「小川原湖伝説 道忠幻生」です。
祭り前のねぶたはやっぱり色が濃くてすごく芸術的でした。うん、やっぱり菱友会がバランス的にいい。山田のやつはちゃんとは見れなかったけど、結構いつも通りごちゃごちゃしてたよ。


 その後、地元のねぶた祭りの出陣式に行く。写真をとりまくりました。データはあるんですが、さすがに一日で全部は無理なんでこれから小出しにしていきます。ちなみに今日の写真は地元のネブタ大賞だった「雲谷の頓慶と七鬼面」です。ねぶたの由来はかつてこのねぶたを作っていた菱友会のホームページより抜粋します。

 説明
 桓武天皇は、坂上田村麿を征夷大将軍に任じ、陸奥[みちのく]へと攻め入った。この「蝦夷[えぞ]征伐」に対し、津軽の地で徹底抗戦したのが、糠檀[こうだ]の嶽[だけ](八甲田山)の女酉長・阿屋須[おやす]と弟・雲谷[もや]の頓慶[とんけい]である。胡笳[こさ]という草笛を吹き鳴らしては、あたりに不思議な濃霧を広げ、毒矢を射返すという、神出鬼没な二人の反撃はおおいに田村麿を悩ませた。しかし、田村麿は北天に悪鬼退散の祈願をして寝たその夜、夢枕に北斗七星が現れて七枚の鬼面を授かる事になった。そして、この面をもっての攻撃には、さしもの阿屋須も、討ち取られてしまう。阿屋須なきあと、一人頑強に潜伏し戦い続けた頓慶も、七鬼面の軍に攻めたてられ、抗戦むなしくついに力尽きてしまった。「茨葎[いばらむぐら]の上駆けること恰[あたか]も平地を走るが如し、足地に付かず所謂[いわゆる]飛禽[ひきん]の如し」という、「天魔の化身」雲谷の頓慶。七鬼面を前に、最期の奮戦をするその勇姿に、郷土の豊かな発展を願うものである。
 尚、蝦夷平定の後、田村麿はこの鬼面を納めて妙見社として崇め祠ったという。これが、現在の大星神社であり、宝物として残されている古面(青森市有形文化財)は、この時の田村麿縁[ゆかり]のものとして今に伝えられている。