青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

 歴史学的な立場から
 最近、某中世史のアジールが大好きな人から感化を受けているせいか、今日の話を聞いて、


国際情勢においては、日本人はアジール*1


 であるような気がしました。政府側が支配者層で、チェルノブイリでの被害者が百姓側だとすると、百姓たちがどんなにお願いしても、その力が弱ければ、支配者側は振り向いてくれません。また、パレスチナの問題においても、イラクの問題においても、加害者側は撮影にくる日本人のような証人のいないところでしか、めちゃくちゃな虐殺行為等はしないのだそうです。広河氏は現地の子を亡くした父親に「あんたが一ヶ月早くここに来てくれれば息子は死ななくてすんだんだ」と言われて、そこにいるだけで事が起こらないのか、ということを知り、恐ろしいけどやっぱり自分がいかなくては、と思って現地に赴いているのだそうです。


 このとき、加害者側、つまり支配者層が農民たちをこきつかうという歴史でよく見られるあのシーンを想像できると思います。鎌倉時代の地頭の横暴なんていうのはまさにこんな感じでしょうか。しかしながら、そこに日本人がいるだけで、加害者はおおっぴらな攻撃はしてこないわけです。つまり、日本人が、証人がそこにいるだけで、彼は悲惨な攻撃を受けずに済む、日本人はまさに現地の人にとってはアジールなのです。


 また、近年流行している民衆的な視点から、支配者層の非法ぶりを見ていく、百姓の生活実態を見ていく、そのような視点から、今日の話は進められていたと思います。じゃあ、支配者層は、つまり、上の方は現地住民をどうとらえているのか、等の問題も浮上してくるのではないかと思います。


 だんだんわけが分からなくなってきたので、この辺にしておきます。とにかく、今日の話は平和ボケしていた自分にとっては、目からウロコのような話で、そこから社会をどう見るか、あるいは情報とどのように向き合うべきか、また、社会を現実をどう伝えていく必要があるのか、など様々な考えが頭をよぎり、非常にいいお話でした。やっぱり現実を見るって大事だなあって感じました。ありがとうございました。

*1:避難所という意味で、ある人が寺社のもとへ駆け込むと、追っ手はそれ以上追ってこず、一切のしがらみから開放されるという観念で、縁切寺などがその例の一つ