青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

瞳でネット④

 きっかけは2005年10月、そう、あの新コーナー事件だった。スタッフさんが何の広がりも見せないコーナーばかりを採用したのだった。思えばここがスタッフ批判の始まりだった。そしてスタッフ批判を通じて、イズムさん、こずみんさんとの連携を確固たるものにした。コーナー化されていないのに、何とかコーナー化して欲しいとこずみんさんの「イニシャルA」にメールしたこともあった*1。しかし判定は覆らず、結局採用されたコーナーそのものもぐだぐだに終わった。


 これを機に瞳でネットの構成が大きく変わった。明らかに時間がないのに曲をフルで流す、メールも読まずに曲ばっか、募集しておいてメールは読まない、とにかくスタッフのあらさがしばかりをしていた。でも、これも裏を返せば「瞳でネット」への愛情そのものだったと今振り返ると思っている。
 そんな中、「飛鳥がプロデュース」というコーナーが始まった。そしてこのコーナーで自分の位置を確固たるものにできたように思う。もはやふつおたには期待せず、アスプロばかりを目指してメール投稿をした。しかもいつも当日の16時。大学の図書館で投稿したときもあった。放送も月曜の17時に変わり、これで大学の授業というしがらみが消えた。そして、月曜5時間目は通年で意地でも授業を入れなかった。


 そんなアスプロも今年1月に終了。以降、投稿氷河期が続いた。何とか消防署長メールで稼いだものの、コーナーでは力を発揮することができず、悔しい日々が続いていた。
 そして3月、突然の終了発表。いつか来るとは思っていたが、来るべき時が来たな、というのが正直な感想だった。自分としてはあと1年、やってくれ、できればもっと…と思っていたのだが、残念である。


 そして今日、3月26日、渋谷飛鳥瞳でネットは167回目の放送を以て終了、いや、一旦休止した。なりふり構わず、そして、自分が心血注いだ番組が終わった。と同時に自分の投稿生活における一時代も終わったような気がした。正直99で止まってしまったことに後ろめたさはあるけど、これが潮時なのかなともふと思っている。毎週毎週この時間だけは意地でも空けて、ネットの前にかじりついていたこの習慣も、今日で終わりなのかと思うと本当に寂しい。毎週毎週どうやって飛鳥ちゃんをいじろうか、どうやってメールを読んでもらおうか、とあれこれ思案することもこれでなくなるのだと思うと本当に寂しい。


 でも、瞳でネットと歩んだこの2年半は人には誇る事はできないし、面接のアピールポイントにはならないかもしれないけど、僕の大学時代の青春であった。まだ1年、青春期間は残ってるんだけど、ここで青春が終わってしまったことは本当に寂しい。でもいつか、いつかここでの経験が役に立つよね。そして、渋谷飛鳥という新潟県生まれの素敵な女性とネットラジオ越しに出会えたことを誇りに思える日が来るよね、というか、もう誇ってもいいよね。


 この瞳でネット投稿期間中、渋谷飛鳥本人に会えたのはたったの3日。2005年1月の福家書店・銀座。そして2006年12月のデジタルチャリティーミュージックソン&DVD発売記念イベント。でも、この2年半で少なくとも飛鳥ちゃんは「青い森(年号)」という名前を覚えてくれたんだもの。ラジオを通じて、ラジオネームを覚えてもらうということを、某有名な投稿者さんを高校時代から見ていた自分としては羨ましく眺めていたけど、それを叶えることができたんだよね。


 来月からは瞳でネットはもうない。でも、ない分だけ、もっともっと人生経験をして、そして、自分の夢へ向かっていきたい。渋谷飛鳥は女優になる夢を叶えた。自分だって叶えなきゃ。


 最後にこの瞳でネットと出会えて本当によかった。月並みの言葉だけど本当にありがとうございました。そして、瞳でネットは永久に不滅ですよね、みなさん。 



2007年3月26日  青い森2007(旧青い森2004、青い森2005、青い森2006)
そういや、この年号を通じて飛鳥ちゃんは自分がたくさん聞いていてくれていることを覚えていたなあ。本当にありがとうございました。

*1:ちなみにこの「イニシャルA」は上原奈美のラジオの中で後に「アルファベット作文」としてコーナー化された