青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

自分の考えの確認

 高校3年生を対象とした学力テストの結果が出た。無作為に抽出しているからこれが全てだとは言い切れないけど、それでも現在の学力の状況を表す指標だとは思う。
 全体的には学力低下に歯止めがかかった、との見方が強いが、それでも少し考えなければならない問題は正答率を落とし、また、無記述という割合も増えた。要はあんまり考えない高校生が多いということだろう。


 特に理数系は二極化の傾向が強いようだ。これは小学校も中学校も限られた時間の中で教科書を終わらなくてはならず、結局塾などで勉強している人や理解しやすい人とそうでない人との格差の広がりを招いている。
 また、古典がダメだ、という声も聞いた。その背後には古典の時間を小論文に充てる学校が増え、古典の時間が削減されたとの見方が出ているようだ。


 しかし私は思う。今の子どもの好奇心はかつての子どもよりも大きいと思う。


 特に子どもは新しいもの好きだ。昨日書いた携帯電話などがその典型であろう。


 また、自分の欲求を充足するためにはどんな手段でも使う、というのが今の子どもの傾向であると私は思う。携帯電話で例をとれば、セキュリティ解除の方法を何とか模索したり、あらゆる情報をパソコンで仕入れたりと、子どもたちの情報収集能力は大人よりも高いと思う。


 だからこそ、そうした欲求を何とか勉強に向けさせることが必要である。


 例えばまだ自分は手にしただけで買って読んでもいないけど、佐久協氏の『高校生が感動した「論語」』などは、それ自体高校生に古典を知ることの楽しさを謳ってくれていると思う。


 また、自分の経験からいうと、正直自分は高校のときまでは、定期考査以上の古典は理解できなかった。だから、センター試験とかは何が何だかさっぱり分からなかった。


 でも、今史学に属して、まがいなりにも漢文に触れていると、何となくセンターレベルの漢文を読めるところまで上がってきた。


 古典は要は教えるか、教えないかの差、もっと言ってしまえば、生徒が自発的にやるか、やらないか、の差だと思う。現に古文の予習はガイドブックに頼っていた私は、古典の成績は一向に上がらなかったし。


 また、古典をやって分かったのは、古典は歴史と非常に関連性を持っているということである。例えば源平合戦などは『平家物語』にその多くを期する部分が多い。源平の例で言えば、平氏=貴族、源氏=武士という二項対立で語ることができる。
 例えば那須与一に代表される「扇の的」では、平氏は戦の余興として行ったものである。それで那須与一が見事に的を得た事、それは平氏にとっては余興が成功したということで非常に喜ばしいこと、あっぱれ、あっぱれ、という遊びみたいなものなのである。
 しかし、義経はその後戦場で踊っていた平氏の老兵を与一に命じて打ち落としてしまう。源氏は戦に勝つ事こそ美学であり、なりふり構わないわけである。
 同じ武士とはいえ、貴族のような礼儀を重んじ、余興を楽しむような平氏と、まさに武士のごとくどんな手を使ってでも勝つ事こそが至上命題であった源氏、そして時代は源氏を選んだ…。これだけでも古典の授業ができる。この二項対立を子どもたちにどうとらえさせるか、これだけで本当に古典はドラマチックになり、歴史の厚みを生む。


 教材を挙げればもっともっといろんなものがあると思う。じゃあ具体的にどんなものがあるの?と言われれば狼狽する。しかしどうせセンター試験はマーク式、最低限度の文法と、返り点の法則を覚えさえすれば、あとはマンガとか、歴史と関連づけを行って、感性を養えば古典なんていくらでも取れる。だって1000年、2000年経って、文法も含めあらゆるものが変わった。だけど、古典だって本質は人間の営みである。だから、我々がそこに近づいていこうとさえすれば、古典なんていくらでも楽しくなると思うし、実力だってつくはずである。


 そうできるような先生になってみたいなあ。もっともっと勉強しないと。