青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

 8日、卒論の報告は、まあまあ満足のいく結果となった。ただ、これがいい方向に発展していくかは別問題。それでも現在のところ地自信をもってこのテーマでやってます、って言える感じにはなったのでこれは4月からの苦労が少しは報われたかなって感じ。


 ただ報告後に、別に軽く言ったつもりはないけど、中高の採用試験を受けますって言ったら、まあ、見事に批判された。東大の博士出た研究者のやつらが採用試験にはたくさんいて、しかも彼等が落ちて非常勤講師をやっている、これが現状なんだよ。小手先の受験知識で受かったとしても、それで実力がなくてやめるなんてことがあったら、それこそ子どもに迷惑なんだよ、みたいなことを言われた。
 まあ、裏を返せば、大学院へ行けっていうことなのだろうけど、少なくとも今の卒論指導の先生の下であんまり学びたいとは思わない。ちょっと付言すれば、だいたい博士出たやつが非常勤でいるのは、専門的知識をつけすぎて、教育方法論が理解されてないからなんじゃないの?しかも研究者になれないから「しょうがないから」っていう人も少なくないでしょ。そんな人は僕からしても教師にはいらんもん。知識だけが全てなのか、専門的知識を得ることが全てなのか、っていう話なのでは、って思ったりもする。ま、それこそ情熱とか、思い・願いで教師になれんのかよ、って言われたらそりゃあなれんだろ、っては思うけどね。

 
 でも、僕は、僕だけど究極のところはそこだろ、っては思ってるよ。学問的な高まりはもちろんだけど、最後は努力と根性と熱意が教師には必要なんじゃないの?それが人間と付き合うっていうことなんじゃないのかな。


 まあ、自分も大学院を見据えている事は見据えているけど、あの先生の前で言うつもりは毛頭ない。ま、若干主観と感情が入っていますが、それはお許し下さい。



 その後はゼミ。社会科教育学、歴史哲学的なアプローチからしたら、歴史は物語なんだってさ。それと、先生はちくりと実証主義的な歴史学の意味や意義について懐疑的な発言をしていた。「あんなことやったって結局、小手先の知識がつくだけであって、実生活や社会で役に立つか」って言ってた。最近自分もつくづくそう思うようになった。
 ってことで最近は地域史研究という趣味領域と、実証主義歴史学研究を脇におきながら、方法論的社会科学習についても少しずつ吸収していこうと思っています。


 最近あのゼミに行くことで批判力をつける訓練だけはできている気がする。歴史学の演習とかは無難に過ごそうを合言葉にやってたから、そんな態度で批判力がつくわけがない。今失われた時間を、敢えて歴史学を客観視することで補おうとしている。



 そういえば、教育実習の反省会や授業分析の際には、?教科教育論(教材そのものの論)、?教科教育法(子どもにあっていたか)、?教科教育術(板書・声の大きさなど先生そのものの資質)の3つの観点に分けて意見を言ったり、分析したりすると建設的なものになるらしい。へえ〜、って思った。