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今日はゼミでした。その前にちょっとだけ歴史っぽいことはしましたけど。
問題解決学習がいらないっていうのを、構成主義的な手法で見ました。「社会の自己化」ってやつです。本当は探究学習をやっていたのですが、いつの間にかそっちの論へ。難しすぎて辟易してしまいました。でも、こういう学問っぽいことは嫌いじゃないです。
自分はやっぱ数学ができない子なんだなって思いました。
(ここからは自分の来週の予習メモなので別に見なくて結構です。)
より学問っぽく書くと、そもそも社会科は国家や共同体を前提として教えている。子どもにとって国家や共同体がどうであるか、そんなことはどうでもいい。子どもにとって大事なのは個の周りにある家庭や学校、友達関係、サークルや部活動のような社会であって、そうした様々な社会の構造を吟味し、意味づけしていく。それを社会編集って言ってたんだけど、教師は社会科という科目の中で、子どもが社会編集する過程で専門的知識を教えればいい、それこそが教師の指導性なんだっていう議論。
言っている事は至極真っ当なことでごもっともなのですが、自分はこの考えを聞いたときになぜだかすごいイライラとそのイライラをうまく言葉にできないもどかしさを感じました。
これは来週のゼミの予習なんですが、この考えに対する意見の中で一番真っ当だなと思ったのは、こうした社会科像に基づいてこれからは「趣味(教養)形成の社会科」が必要になるという言葉かな。これがこの論の究極的なアンチテーゼでしょ。
それと実践が伴わないこと。もし伴うとしたら藤井千春氏が指摘するように結局のところ問題解決学習へ収斂してしまう、そうした考え方を伴っているような気がしてなりません。しかも探究ではない、初志のような問題解決学習に。問題解決的思考って言っているけど、やることは問題解決学習だろうし、もしそうでないとしたらアメリカ型のそれこそ毎時間が自習みたいな、そういう社会科になるのではないかなって感じる。
この考え方はすごくよく分かるし、現状分析は間違いないんだけど、いざ実践となったときには子供が見えない、見えたとしても探究学習というよりは初志のような問題解決的な学習に、そうでないなら趣味の時間の(部活動やサークルみたいな)社会科になってしまうんじゃないかなって思います。まあ、ぶっちゃけ社会科を破壊する論です。