青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

社会科とは⑧〜考える社会科の有効性〜

 今書かないと書けなくなりそうなんで書きます。

議論を通じて意思決定力を育てる社会科の授業が広がる。

 「ゴミ袋が高くなっても、(一つの袋に)たくさん詰めれば、ゴミは減らないよね?」。男児の表情は真剣だ。相手の子も「お金がかかるから、ゴミ袋を買わなくなって、ゴミも減らそうとすると思う」。考え考え、自分の言葉で応じる。

 10日に行われた佐賀市立本庄小学校4年3組の社会科。ゴミを減らす方法として子供たちから上がった「分別の種類を増やしてリサイクルを進める」「ゴミ袋を10円値上げする」「レジ袋を有料化する」の3案に優先順位をつける授業だ。

 4人1組の班を作り、同じ意見、異なる意見の班に入り込んで意見を交換する。担任の坂井清隆教諭(39)は、うまく説明できない子には、理由を尋ねてみたり、「お母さんだったら?」と立場を変えて考えさせたりする。

 授業が終わるころ、級友の提案で意見を変える子も出た。「リサイクル」を2位から3位に下げた男児は、「分別の種類を増やすとサボる人が出てくる」との意見に、「考えてもみなかった」と感服していた。



 こうした授業法は「提案する社会科」と呼ばれる。「学級での『提案の磨き合い』を通して、考える力や判断力が育つ。説明するために自ら獲得した知識には価値がある」と坂井教諭。

 この日の授業は全12時間の単元の11時間目。子供たちはすでに、全国や佐賀県の平均よりも市のゴミの量が多いことや、処理費が増加傾向にあることも学んだ。ゴミ置き場の分別状況を調べて家族に意見を聞き、清掃工場を見学もした。

 授業を通して、個人の心がけだけではなく、社会全体で取り組むことがあると考えさせた。優先順位をつけることは、政策を多面的に評価する訓練になる。「現代社会を教材にできるのは社会科だけ。答えがない問題を議論しながら考えることは、民主主義社会を作るシミュレーション(模擬行動)になるはず」

     ◎

 坂井教諭が「提案する社会科」に出会ったのは6年前。提唱者の小西正雄・鳴門教育大教授(56)が、社会科の研究大会に招かれて来県した。県内には小西教授の教え子もおり、「提案型」が徐々に広まった。

 小西教授は今、大学で請われて「総合的な学習の時間」の講座を担当する。社会科教育研究からは遠ざかったが、現場での助言は続けている。「情報があふれる時代に、受け身でいるばかりでは生きていけない。知識を活用し、自分の意思を作る教育が大事という思いは変わらない」。子供の読解力の低下が指摘される中で追い風も感じている。

 教師たちに「今の社会で何が起きていて、自分はどういう立場で、何ができるか、考え続けてほしい」と望む。「それができなければ、ただの『教え屋さん』になってしまう」

 教師は、公民的資質を磨き続ける必要がある。(松本由佳、写真も)

 提案する社会科 1988年に小西教授らが提唱した授業法。政策的な提案を出し合い、討論しながら合意形成や意思決定をしていくことで、公民的資質をはぐくむ。必ずしも行政への政策提案が目的ではない。最初の実践は、校区内で消火栓の設置場所を考える授業だった。「公園をどこに作るか」「町の交通安全計画」といった地域の課題から、環境問題や人権問題など様々な実践がある。

(2007年10月25日 読売新聞)


 ある意味これが「社会科」という科目の到達点なのかもしれません。自分が今お世話になっている数学の先生は、今までに会ったことがないタイプの先生。自分が中学校時代に会っていたら絶対数学の道に進んでただろうなっていう感じの先生。うちのゼミの先生もそうだけど、授業タイプとして答えはあるんだけど、絶対に考えさせるんだよね。そのために敢えて難しい問題は出すし、曖昧な表現は完全に排除する。例えば二等辺三角形の証明ひとつとっても、「底角」と「二つの角」というのを厳密に区別する。「底角って言えるのは二等辺三角形の時であって、この三角形は仮定で二等辺三角形なんて示してない」ってな感じで。ゼミの先生の授業法(問答)もそれに近い。曖昧なことは絶対許さない、とことん追究させる。そしてある一つの「答え」に行き着く。
 その数学の先生のやっていることは確かに難しいです。文系上がりの自分では対応できない部分があります。でも、この1年半の成果なのでしょうか、クラスががやがやしていてもみんなきちんと考えているんです。「考える」ということはあらゆる教科の基本。数学でできて社会科でできないはずはない、自分はそう思っています。


 ただ数学と社会科の違いは、「答え」があるか、ないかだと思います。学校でやる数学には答えが存在します。もちろん社会科にもないわけではありません。例えば歴史なんかがそう。でも、現代社会には「答え」なんていうものは存在しません。しかしながら、現代社会についてもさも「答え」があるかのように指導されている現状があります。


 社会科が究極のところ公民的資質を育成している以上、方法論として目指すべき指針は、「例え結論が出なくとも、多様な価値を戦わせていくこと」「相手の考えを聞き、そして自分の考えを持つこと」、これだと思います。今のボランティア先の中学校の生徒は、証明が分からなくてもその証明を「考える」という活動はしています。この「考える」社会科を作り出していくことが今の社会科に求められていくことだと思います。「知る」と「考える」の相互作用が公民的資質を生み出す源になると自分は思います。


 もちろんこうした社会科は手間がかかるし、訓練は必要だと思います。でも、そのぐらいのことをしないと社会科は科目として生きていけないような気が自分はするのですが、どうでしょうか?