青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

社会科とは⑩(終)〜未来の「社会科」をどう作っていくか〜

 いやあ、まさか2週間で終わると思いませんでした。ぶっちゃけたところ、世界史未履修に関連した問題と、公民教育の問題、それから地理が少ないっていう問題だけに終始していた気がしますが、どうなのでしょうか。

 「社会科」への興味をどう引き出すか。読者も一緒に考える。

 「子供たちの世界地図音痴には本当にあきれてしまいます」

 40代の主婦から、中高校生の娘たちの知識不足を嘆くメールが届いた。欧州の国名の知識があやふやな高校生が増えている現状を紹介した記事(16日付)に対する意見だった。

 自身の子供のころは、池田理代子さんの歴史漫画が大ヒット。「ベルサイユのばら」でフランス革命を、「オルフェウスの窓」でロシア革命を学んだ。そんな少女時代を振り返り、「ギリシャ神話やキリスト教の知識なしに英会話を学んでも、本当に英語圏の人と対話できるとは思えない。今の子供にもっと世界史を楽しんでほしい」と願う。



 海外の教育現場にいる日本人から意見が相次いだ。

 「日本の歴史の教科書はすばらしい。これだけうまくまとめた教科書はイギリスにはない」と賛辞を贈るのは、英国の音楽学校で、中学の歴史教科書を使って日本人学生に「日本の常識」を教えている女性だ。

 「イギリスの歴史教育は出来事の分析が中心で、歴史的流れがほとんど無視されている。有名パブリックスクールの『歴史』や『地理』もお粗末だった。論理性は養われるが、オックスフォード大学で歴史を専攻した息子より、私の方が歴史の常識はある」

 これに対し、「日本の教育は知識をつけるには優れているが、自分で考えることは出来ていないようだ」と日英の教育の違いを指摘した。

 世界中を旅した経験で、世界史への興味をかきたてる高校教師(17日付)には、「150%賛同します」。イタリアの大学の准教授として、日本語で「日本語・日本文学」を教えているという男性からだった。

 欧州で40年近く、教員をしており、「教師自身も楽しみながら楽しい授業を展開し、学生に興味を持たせることを通じて、学生がおのずと勉学に立ち向かうように誘導することが必要だ」と訴える。男性自身も「以前は何を教えるかばかりに心を奪われてきたが、今ではどうやって楽しい授業展開をするかに腐心している」と語る。

 さらに、英国で市民教育・社会科教育を研究中の読者は「学校や入試は、いまだに知識中心の暗記科目のイメージが強いが、社会科関連の学会で知識中心の教授法の提案は皆無。社会とかかわる様々な技能や価値観の形成を目指した指導案の開発が必死に行われている」と指摘した。



 歴史能力検定の学校での活用を紹介した記事(18日付)には、兵庫県の小学5年生から受験の問い合わせもあった。小学校での歴史学習はまだだが、塾では中学の内容も先取りしており、興味を持ったという。

 歴検協会((電)03・5913・6407)によると、次回の試験は12月9日、締め切りは10月31日。ただ、最もやさしい5級(小学校修了程度)は、年1回7月だけの実施となっている。

 このほか、中学校の授業で行われている模擬裁判(20日付)について、浜松市の女性(55)から、「裁判の仕組みと並行してモラルを教えてもらいたい」と要望があった。「裁判員になるということは、その前も後も生き方が問われている」というあるパネリストの言葉が印象に残っているという。学校で取り込める視点だろう。(茂)

(2007年10月27日 読売新聞)


 ぶっちゃけ今回のは読者の意見なのでそれに触れつつ、まとめを述べていきたいと思います。
 まずは世界史教育に関して。自分は今後大学院に進学したらとりあえず日本史教育は脇において、世界史をどう教えるべきなのか、っていうことを考えていきたいと思っています。それは自分があまりにも世界史に無知だったこと、そして日本史は小中の9年間で培ってきた歴史観がベースにありますが、世界史にはそれがないこと、また子どもはいやが上にも「日本」という社会の中で生きているので現代の日本をベースとした指導ができますが、世界史はまず「現在の世界」という理解が欠如していること、などなど様々な理由があります。おそらくなぜ世界史未履修という事態を引き起こしたのか、なぜ高校生は世界史を倦厭するのかはそこにあるように思えます。一応個人的な意見としては、「現在の世界」を見る視点が小中の教育でなされず、いきなり高校で世界史をやっても世界観がないから単なる暗記、しかも用語はカタカナ、世界地図の教育もなされていないからどこが何だかさえ分からない、で、結局放棄する。ぶっちゃけそれは社会科の先生も同様の視点をもてていないからだと思いますし、そうした功罪を作らないようにしたい、っていうのが自分のこれからの課題だと思っています。


 とりあえず学問は批判しなきゃ意味がないと思っているし、日本史教育に関しては今は「日本」という枠組を取っ払った東アジアの中での日本史教育…みたいなのが流行しているようだし、その部分に関しては批判も出尽くしているので、そこは放棄したいと思います。



 ついでに日本史教育に関して。これはとりあえず実習の中で自分は確かな手ごたえをつかみました。日本の教科書はどうやら系統的な、歴史の流れを教える指導には優れていて、その反面分析など考える力を養うには乏しいようです。しかしながらそうした考える力っていうのはある程度の専門的知識がないと問題を立てることができません。特に歴史に関しては。実際自分は日本史の授業で生徒に意見を書かせる活動を取り入れていきましたが、それも専門的知識があったからこそ立てられた問題であって、これが世界史や地理だったら難しかったと思います。実際のところ「考える日本史」っていうのは本当に難しいと思います。自分の中での日本史教育は、知識を教え、その知識を生かすっていう理念の下、後は専門的知識をつけて問題を設定するだけの段階なので、実践段階での教材研究が課題になるかと思います。



 まあ、いろいろと御託を並べてきましたが、究極のところ社会科は教師側が「楽しく」やっていればそれが生徒に伝染すると自分は思います。実際のところ自分はいわゆる底辺校で指導したことがないので、果たしてそれが本当なのかは分かりませんが、教師が自信を持ってやらないとやっぱり授業はつまらなくなります。その意味ではまずネタを見つけてくることがすごく重要になってくると思います。






 1947年に誕生した社会科という科目は今年で60年を迎えます。最初の頃は社会科は社会と密接に結びついた科目でした。それはみんな誰しもが社会、特に政府を見つめていたからです。しかし60年経った現在、社会科は必ずしも社会と結びついたものになっているとは限らない科目となってしまいました。個々が見つめている社会は政府ではなく、クラス内、友達内、サークルなど、自分の身の回りにだけ向けられているような気がします。その中で社会科はどんな役割を果たしていくべきなのでしょうか?そんな個の社会だけ見て、その個に対応した社会における専門的な知識だけを教えていればいいのでしょうか?


 自分の考えから言うとそれはNOです。この考え方はまず実践が伴わないし、究極、小学校の問題解決型学習に収斂する気がします。それに社会というのは多様な視点があって、その多様な視点を示していくことが絶対的に重要です。教科書はそのひとつの指針です。教科書の知識を教える事はとても重要なことです。しかし、それを絶対視することもまた問題です。それを絶対視すると、社会科は暗記だけの科目になります。ある程度の束縛はされてもそこからの脱却をはからなくてはなりません。その方法が実物を示したり、自分の体験を話したり、地域の話題を取り上げたり、だと思います。そしてそれを「楽しく」教える、こうするだけでも社会科は暗記科目という束縛から解放されると自分は思います。


 教科教育を学問とするときに一番厄介なのが、理論と実践が大きく乖離してしまうことです。これはどんなに頑張っても埋めようがない事実です。教育が専門職になりえないのはそこに理由があるのだと思います。しかし、理論も持っていて、それに実践が伴っていたら…それは百人力なような気がします。自分はそんな社会科の先生を目指していきたいと考えています。



 以上つたない特集でしたが、自分の意見の整理にもなりましたし非常に有意義なものとなりました。見て下さった方は本当にありがとうございました。多少分からない部分やおかしいだろ、って思う部分もあったかもしれませんがそれはご愛嬌ってことで。
 何か感想がありましたらよろしくお願いします。



(完)