青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

雑言

 誰もが平等であるという共同体は、結局は絶対的権力者を希求するようになる。これは社会主義全体主義に陥ったジレンマでもあります。つまるところ、誰もが平等であるということは絶対にありえません。
 ちょっと待って、日本国憲法ではいろんな平等を述べているよ。確かに述べています。しかし、日本国憲法をよく見てみましょう。特に「平等権」とも呼ばれる憲法十四条。よく見ると「法の下の平等」と書いていませんか?つまり、人間誰しもが「法の下では」平等なのです。
 つまり、平等とは限定された平等なのです。自由もそうです。「〜の」自由。そこには限定表現が伴います。いや、むしろ限定しなければ社会として成り立っていかないのです。
 では、本源的に自由や平等を求めるとどうなるでしょう。かつては「民衆が平等である」という社会主義共産主義社会が理想とまで言われました。しかし、その先に待っていたのは復古的な絶対君主制でした。誰かが権力で押さえつけなければ万人平等を実現できなかったのです。そのため、中国は資本主義化し、ソ連は崩壊しました。
 要するに左であろうが、右であろうが、結局は権力を希求するように構造としてできているのです。そして左の方が意外と性質が悪い。極左勢力と極右勢力が結局は同じベクトルに収斂される理由はここにあります。


 そして極左権力は、かつての絶対王政にひけを取らない強大な権力をつかみます。もちろんそれは支配者の側に立った時です。被支配者の側に立ったとき、我々は無力となります。もちろん迎合すれば無力ではありません。しかし、ひとたび反旗を翻そうものなら、プラハの春です。文化大革命です。天安門事件です。その強大な権力によって反乱因子は鎮圧されてしまうのです。


 だからこそそれまで左でいた人は、その幻想を抱いたままか、さもなくば研究対象をマクロスケールでとらえていくことを希求するのです。まあ、言ってみれば自発的な国外退去みたいなもんでしょ。


 まあ、頭がぐるぐるしそうな話をしましたが、こういう理論構築は世界史的観点がなければできないものでしょうね。日本か、さもなくば東アジア的視点では社会構造を大きくとらえることはできないんだと思います。そこに世界史をやる意味は…あるのかな?


 ちなみに全く内容とは関係ありませんが、こんな本読みました。興味があったらぜひ。
 

世界史なんていらない? (岩波ブックレット)

世界史なんていらない? (岩波ブックレット)