青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

デス・エディケーション

 さっきまで月曜の授業の感想文(Pちゃんのやつ)を書いていたので、それで思ったことを。
 Pちゃん実践のように「死」とか「病」とか、そういうマイナスな要素を含んだものは、教育現場や教育実践から排除されています。これは子どもと言うのは本来純粋であるという性善説に基づいた考え方でしょう。実際のところ小学校の社会科でも働いている人の思いや願いに触れたり、よりよい生活を送っていくために私たちにできることは何かを考えさせることが往々にしてあります。これもある意味教育現場が意図的に作っているハッピーな社会でしかないわけです。


 もちろんそうしたフィルターを用意せずに、がしがし社会現実を見せた方がいい、とは僕は思いません。


 話がそれましたが、なぜ「死」が教育から排除されているのか、自分が思うにそれは、「死」という問題は、教師が教師として振舞える(答えられる)問題ではないからだと思います。こういう問題は教師以前に個人としても答えることのできない問題です。
 つまり、「死」や「暴力」、「病」といった問題の前では教師だけでなく、どんな大人でも無力なのです。そうした問題は、教師の尊厳上答えられないっていうのと、教師対生徒ではなく、大人対子どもでもなく、人間対人間どうしの問題であるからだと思います。



 
 この問題から僕は、「ごくせん」や「GTO」、「ルーキーズ」といった学園ドラマがなぜウケるのかが見えてきたような気がしました。まあ、いずれの先生も破天荒で、とても教師とは言えないような側面があります。そしてひねくれた生徒は社会現実をがしがしと見せ付けられ、ひねくれた奴等ばかり。もう、分かりましたね。ああいったドラマが受ける理由は、教師対生徒、という関係ではなく、人間対人間でぶつかりあっているから、ウケるのです。


 でも、ひねくれた言い方をすると所詮はドラマです。教育現場において教師が常に一個人として人間対人間で付き合うということが必ずしもいいとは僕は思えません。特に小学校や中学校においては。それに一個人として向き合うんだったら、そんなの教師でなくてもできます。むしろしがらみだらけの教師じゃないほうができます。


 教師は、伝えたい事が一個人としての感情であるのならば、尚更勉強し、学んでいかなくてはならないと思います。それができないのであれば、常に教師を演じ、タブーには踏み込まないのが無難だと思います。でも、ごくせんみたいな先生になりたいんだったら、武術や喧嘩の腕を磨くんじゃなくて、人間としての腕を磨いていかなくてはいけなんだと思います。