青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

学校の存在意義

 このイライラは自分の批判心を生みます。
 みなさんは学生だったころ、一度こんな事を思った事はありませんか?



 「なぜ、学校に行かなくてはならないの?なぜ、勉強しなければならないの?」



 一度でもある人〜?



 はい、そんなあなたは正常です。



 ちなみに自分が大人(先生)で、子どもから上の質問されたら、あなたなら何と答えますか?



 「一人前の大人になるためだよ」
 「就職に有利だからよ」
 「社会で生きていくためよ」
 



 上の質問に対しては
 「一人前の大人ってどんな大人?」
 「今の就職難の状態で、就職に有利ってあるの?大学院という高学歴でさえ職にありつけない昨今」
 「でも、社会で生きていくために数学とかは必要なくないですか?」
 って反論できそうですね。




 そんな屁理屈こねた人がいたら、あなたは「ムキー、もう行かなきゃいけないの」ってさじを投げてしまうでしょうか。




 なぜ勉強するのか、なぜ学校に行くのか、最も妥当な答えはこれだと自分は思います。



 それはあなたが日本人になるためだから。日本社会に適応できる自分になるためだから。



 え、それじゃ3つ目の質問と同じで「数学」はどうするんだって思いません?



 実は学校カリキュラムにおいて数学そのものが意味をなすのはせいぜい理学部や工学部、医学部など理系に行く人や経済学部に行く人ぐらいで、大学においては意味があるかもしれませんが、微分積分とか√それ自体に意味はありません。
 実はあの数学の問題というのは、解き方の多様性という側面はさておいて、考える力と同時に素直に生きる力、問題にきちんと従う力を養成しているのだと思います。
 要は日本社会に適応できる忍耐力・従順力を養っているわけです。
 こういうのを教育学の用語で形式陶冶と言います。




 実は日本の学校における授業のほとんどはこの形式陶冶を養うために存在しています。授業では内容の面白さを伝えたりしますが、結局受験やテストで問われている問題は、ひとつの答えであって、ひとつしかない答えであるわけです。



 社会科であればもっと露骨です。歴史なんかは国家がいかにできあがったのかを語る物語であるし、公民なんかは知識をつけられたらたまらないからわざと経済概念ばっかり載せて意味不明に書いているし、法律は守ってほしいから、憲法を守れ、と国民を強化するわけです。




 こんな国民養成をして今更何の意味があろうか。
 



 同時に今の世界は複雑多様な世界。隣の人とは価値観が全く違うわけだし、テストでいい成績を取り、エリートコースにのったって、必ず就職が保障され、将来の雇用が保障されているわけでもありません。おまけに我々の現前に生きている大人たちが必ずしも子どもの見本となれる人なのか、どうかも怪しい。
 こんな大人社会が古い幻想を抱えたまま、未だに国民育成のために必須であるかのように課しているまやかしのような学校社会やカリキュラムに意味はあるのか。
 また、時代はゆとりと呼ばれ、子ども中心に動いている。




 むしろ価値観が違うわけだから、子どもの好きに行動すればいいじゃないか。政治だって興味のある奴がやればいい、経済活動だって興味のある奴がやればいい。興味のないことを子どもに教えることこそ悪であり、無駄ではないか。





 こういう教育観を自由主義教育観と言い、宮台真司らに代表されるような学校観であるわけです。




 同時に、学校という文化は、こうした社会の要請によって規定されているわけで、これを社会構築主義というわけです。



 この考えの一番の面白いところは、子ども中心主義の人たちの原理的矛盾を突くことができるということ。
 つまり、真に子ども中心主義であるならば、そもそも学校社会に縛り付けている地点で子ども中心主義ではないということ。教師が何らかの発問やカリキュラムを与えている地点で、子ども中心主義ではなく、子どもを学校という空間に縛り付けているのだ、という原理的矛盾を指摘できるということです。





 学校にいる教師という輩は学校社会という枠組みに子どもたちを縛り付けている、こんな呪縛を解き放とう、しかも大人の力なんか借りず、子どもたちだけで役割分担すれば十分社会を改変する事は可能である、こんな感じで書かれた小説が村上龍の『希望の国エクソダス』なのでぜひ読んでみてください。これこそ真の子ども中心主義です。子どもが大人に抵抗できてこそ、真の子ども中心主義です。





 さあ、あなたは子ども中心主義としての自由主義教育観を批判できるでしょうか。自分はむかつくけど、できません。強いて言うならば、子ども中心主義を捨て、大人は子どもの目の前に強く立つことです。でも、今の大人、今の教師にそんなパワーはあるんでしょうか。同時にあなたは、子どもに「なぜ勉強しなければいけないの?」という答えを、合理的に、矛盾なく説明することができますか?





 まあ、現実学校ではこんな危険思想は言えませんが、歴史的に言うと、学校社会の多くは、近代の国民育成と密接に関連して生まれたものであることは間違いありません。「学校に行く」という概念も、「行進する」という行為も、「運動会」で組に分かれて戦うのも、みんな。
 だから学校社会ほど近代国民国家を象徴しているものはありません。だからこそカリキュラムだって、授業だってそうなわけです。




 おまけとして、自分が最初の質問を子どもに言われたらこう返します。
 「じゃあ、勉強しない代わりにあなたは何をするんですか?」と。