青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

世間と空気(鴻上尚史)

 様々な分野で活躍する鴻上尚史氏の本です。最近、上の先生の顔色ばかりうかがってイライラしていたので、これを読んで憂さ晴らしをしよう、と思って買いました。
 まだ読み途中ですが、よく日本では、「空気を読めない(KY)」など、「空気」という言葉が存在します。それは、テレビのバラエティでも一緒で、さんまさんの番組にはさんまさんの「空気」がありますし、紳介さんの番組には紳介さんの「空気」がある。その「空気」を読んでいるタレントが、テレビに出れるわけですね。ヘキサゴンファミリーとかね。


 そしてその「空気」の中で、彼らには「キャラクター」というのが与えられ、彼らはその「キャラクター」を消費しているわけです。例えば、オードリーの春日なら、堂々として、ずけずけ物を言う「キャラクター」が与えられている。そこからずれると、視聴者である我々は確実に違和感を抱くわけです。
 まあ、脱線すれば押尾学と薬物なら、「あいつならやりかねん」と思うし、酒井法子と薬物なら、「どうしてあの人が?」と思う、その地点で、我々はテレビの中にいる「キャラクター」を消費する消費者となり、それに踊らされているわけです。
 この辺は「キャラクター論」というのが近年社会学で流行しているので、そちらの本を読んでください。岩波ブックレットの『キャラ化する/される子どもたち』なんかがよいかと思います。

 



 そうした「空気」や「世間」を鴻上氏は「自分に関係のある世界」と定義づけします。そして外にある「社会」を「自分とは関係のない世界」と定義づけするのです。
 実は、日本社会はこの「世間」や「空気」の圧力が近年極めて強くなっています。「自分に関係のある社会」の中で、いかに合理的に生きるのか、に腐心し、「嫌われないように」努力するわけです。



 こうした「世間」や「空気」が色濃くはびこる社会、それが実は教育だと自分は思います。
 例えば社会科教育を論じるにしても、教師間では「論理的には分かるけど、でもそれは子どもには無理だよね」「その考えは極めて合理的だけど、子どもの人権とか、心情とかを考えるとね」という教師の言い草がそれです。 そうして学校現場は子どもに「社会」を見せる事を隠蔽します。また、「個人」として生きることも許容しません。それは、日本社会が極めて「世間」を重視している社会であると同時に、教育がその生産を行っているからではないかと思います。


 近年大流行の、法教育、経済教育などの市民性教育も、日本型の「世間」と壁にはばまれて理論と実践が大きく乖離している現状からもその様子はうかがえます。



 鴻上氏は「世間」を伝えていないと言っていますが、強いて言えば「世間」の壁があついにも関わらず、教師が「自立した個人として、世間と戦い、社会を変えていく存在」という理想の子どもを育てようとすればするほど、教師も子どもも無力感を感じ、結局「隠れた形で「世間」を伝えている」のではないかと思います。しかもそれは「世間」の壁はあついという無力感付きなので、ますます「世間」や「空気」の存在を隠蔽していると思います。



 自分の研究室は、上の考え方にピタリと合致します。ということは、理想論を語れば語るほど、「世間」や「空気」の圧力に学生は飲み込まれていくことになります。悔しきかな、今の自分を分析するとそういう感じになっています。




 こういう社会学みたいな発想って、教育がいかに愚かで無力であるのかを示してくれるので、自分としてはすっきりします。そういう教育の限界もふまえつつ、指導することが重要なんだと思います。まだ読んでいる途中なので、その社会の中で自分はどう生きるべきか、つまり、「世間」や「空気」の正体を理解し、どう生きるべきかを模索していきたいと思います。

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)