青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

最近見た面白いテレビ1

 たまたまテレビをつけていたら、右翼と左翼の番組をやっていました。
 左翼のは法○大学の学生運動、右翼のはよくある街宣車のやつ。
 一番印象に残っているのは、自分もそうだけど、そうした運動を端から見る若者は、
 「あんなのやって意味があるの?」とか、
 「バカなんじゃない」「暇なんだよ、きっと」
 みたいな感じで見ている風景でした。



 そして、左翼や右翼に染まる若者にとっては、右翼や左翼という思想がどうのこうのよりも、そこに「居場所」を求めている姿を見ることができました。
 最後に解説者は「端から見ている若者だって、苦しい社会に居場所を求めて生きている。なので、右翼とか左翼の活動、これからの日本のあるべき方向、国家論などを他人事にすべきでない」的なことを言っていました。
 なるほど、その通り、と思いましたね。



 若者の反応が正直、素直な反応だと思います。いかに国家のあるべき姿を語ったところで、国家が変わるわけではない。だったら、そんな無力なことをいちいち声を大にしてやる必要があるのか、そんなの時間の無駄じゃん、自分も内心そう思います。
 しかし、そうした考えが、日本社会を思考停止に追い込んでいるように思います。と同時に、一部の頭のいいやつに政治や経済の実権はすべて持っていかれて、市民は何も知らずに「苦しい」社会を我慢して、生きていかなくてはいけない、そんな「よのなか」になりつつあるように思います。


 もちろん、リベラリズムの発想に立てば、それもアリでしょう。しかし、真のリベラリズムは、権利を侵害されているかどうかをチェックできる機能や知識を市民が持ってこそ、そういった思想でもいいように自分は思います。
 ということは、教育、とりわけ社会科教育に置き換えた際には、「苦しい」社会、「苦しい」よのなかをきちんと分析できる力、と同時に、いかなる社会を目指していくべきか、をきちんと議論できる力が必要なのではないかな、と思います。


 もちろん、自分はこれからも左翼や右翼は端から見ていくという行動を続けます。「無駄じゃん」と思いながら見ていくと思います。しかし、彼らの意見表明は、意見表明としてとらえていく必要はあるようには思います。



 こういう意見表明なき社会は、日本を政府官僚による独裁国家に追いやるだけでしょう。今の社会は、民主主義が形だけ保障されているようで、実際は社会が複雑になっているので全く意見表明ができない状態になっています。
 そんな思考が停止している日本の現状を読むにはこの一冊をおススメします。日本人の思考停止にメディアや法化社会がいかに貢献しているのかを知ることができます。
 

思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本 (講談社現代新書)

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