青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

学力考

 そんなこんなで最近は読売新聞の「学力考」が好きで、大学の図書館で読むのが楽しみです。
 読売新聞の記事とは全く関係ないのですが、また思った事を書き連ねたいと思います。



 今日は、子どもの主体性を声高に叫ぶ教師は愚かであるということを述べたいと思います。
 



 え、そんなことを言うお前は教師失格だ!って?



 確かに、うちの大学にいれば、子どもに教え込むことは悪であり、できる限り子どもの様子、子どものレベルに合わせて教えなきゃいけない、ある種宗教の如くそのように教えられます。確かに子どもの知識とかけ離れたことを教え、子どもが飽きていたり寝ていたりするにも関わらず、それを延々やる教師は、確かに「もっと工夫しろよ」と思いますが。




 ただ、僕は教え込むよりもっとひどいのが「教えない」ことだと考えています。




 え、そんなこと私はしていないって?




 でも、考えて。
 社会科は、とにかく子どもに思う事を思うがままに言わせたりしていませんか?
 地域調査と称して、外に連れ出してただ思った事を言わせているだけではありませんか?
 やたらと見学に連れて行き子どもを喜ばせているだけにしていませんか?
 学級会やクラスで何かを決める時も、子どもに放任していませんか?




 今挙げた行為に明確な「目標」があれば別です。ただその「目標」が、子どもの成長を促さない「目標」(コミュニケーション力とかいう抽象的で、子どもにも実感しにくいもの)だったりしたならば、やっぱり教師は何も「教えていません」。むしろ、教師なんていう存在は必要ありません。必要があるとすれば、子どもたちを静かにさせるための装置でしかないでしょう。





 実は、ゆとり教育の問題点(まあ、ゆとり教育に対するメディアの対応、及びそれに関する教師の解釈とでもしておきますか)は、ここにあります。
 できる限りの体験活動(人との出会い)と、子ども一人ひとりの個性、子ども一人ひとりの主体性、やる気、そういったものを重視し、それを高めていくことで、学びの質が高まっていく、そんな論調だったと思います。
 ただ、ひとつ言わせてほしいのは、



 
 「個性」とは、条件を同じくして他と「比べた」時にはじめて「個性」だと分かる(客観テストなんかがそのいい例)。そして、その「個性」をみんなが「認めて」(あいつは、頭がいいよな、と言ってもらえる時)はじめて「個性」は「個性」たりうる。
 だから、みんな違ってみんないいという発想の中に「個性」というのは生まれない。生まれるとすれば、それは「ひとりよがりの個性」でしかない。



 
 学びとは本来、「まねる」ことである。だから、教師が「学び」を放棄した瞬間、そこには「主体性」も「やる気」も存在しない。それが「主体的」であって、「やる気」があると感じるのは、単にその子が知っている知識をひけらかしているか、さもなくば、ただ子どもが教師に付き合ってあげている(遊んであげている)か、のどちらか。
 つまり、本当の「主体性」と「やる気」は、教師が「教え込まないと」絶対に生まれてこない。




 本来、ゆとり教育とはエリート教育とほぼ同義です。つまり、本当に自ら学び、自ら考えることができるのは一部のエリートでしかありません。
 でも、教師は残念ながらエリートではありません。それが、ゆとり教育が失敗だったことにつながっています。



 東京の、特に初等系の教員を多数送り込んでいるうちの大学を例にして考えてみましょう。
 ここの大学に来る人たちは、高等学校までの受験指導型の教え込みの授業を好み、センター試験もそれなりに解くことができる「中間層エリート」。ただ、それが「中間層」という根拠は、学習してきたのはそこに含まれる知識だけであって、思考法その他、生きていくため、社会を回すために必要な思考は全く学んできていない。大学に入れば、それらの知識はみな忘れ去られ、今までやってきた3年間(もっといえば12年間)はすべてリセットされてしまいます。


 そして、大学に入ったら入ったで、学問的な思考法を教わるでもなく、いきなり「子どもを見ろ」「教え込みは悪である」と魔法のように教えられ、洗脳させられる。そして、いろんな子どもを引き立たせる手法だけを教えられ(例えば実物を使う、映像を使うなどなど)、そのまま現場へ出ていく。



 もちろん、この装置のおかしさに気づくやつはうちの大学にもいる。ただ、そいつらは大概、その装置と今後一切付き合うことのない職業に就職する。大人社会で生きていく賢く、かつ合理的な道を選択する。



 そして、残ったやつが教職ということになるのだが、中等系の人間にはこの装置のことが理解できて、それでも教師、というやつはいる。ただ、初等系の人間はこの装置の存在にすら気づかないやつが本当に多いと思う。そして、気づかないやつは、だいたい思考法や研究というのが全くなっていないやつが多いと思う。
 例えば、彼らに調べ活動をさせても、疑問点を述べるでもなく、自分の意見を述べるでもなく、ただただ調べた事をそのまま載せる、小学生程度の調べ活動しかできない(これは、うちの社会科教育研究室の学部生で立証済み)。そして、それが直されるでもなく、単位として認定されてしまううちの大学。




 この「教え込みは悪だから」、「調べ方や考え方も教えないし、教わらない」。このゆとり教育的な大学の発想で、そのまま学んで教師になるもんだから、いざ子どもを目の前にすると、それを子どもに追認する。ただ、学習指導要領だけは絶対だから、そこの内容が減るという事は必然的に教えるべき内容も減る。そして、文部科学省が学力だと称しているものも低下していく。




 実は、ゆとり教育の決定的な敗因は、大学の教員養成そのものがゆとり教育だったからではないか、と自分は思っています。大学で思考力をしっかりと磨き、それに引きずられて学問もしっかりとやっていれば、多かれ少なかれ、小学校の社会科を工場見学して感想だけ書かせる授業にはしないはず(11月に行った小学校は本当にその気があった)。





 だから、これだけは言いたい。



 
 教師というのは多かれ少なかれ、何かを教え込む存在である。
 重要なのは、何を教え込むかであり、それがなぜ必要なのかを考えることである。
 そのために考えるべきはいかに教えるか、ではなく、なぜ教えるかである。





 うちの大学は「教え込む」ことを忌避している。これは、佐藤学が言っていたように、子どもではなく、教師が「学びからの逃避」をしている。「学ぶ」ことは「まねる=教わる(教え込む)」ことだというのは先に述べた通りである。



 教師は「教え込む」存在だ。教員養成に携わる者がこのように高らかに宣言していくだけで、教育は、絶対に変わる。