青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

「ゾーニングの顔をした表現規制」「社会の自立の、行政による他殺」──宮台教授

 久々に長文。以下、mixiニュースから記事の冒頭を抜粋


 東京都の青少年育成条例改正案について現役の漫画家らが発言したイベント「どうする!?どうなる?都条例──非実在青少年とケータイ規制を考える」(5月17日)では、首都大学東京宮台真司教授が改正案について、「社会学者から見た都条例改正案」というテーマで発言した。

 さすがは社会学者ですね。言っていることがいちいち論理的で読んでいるこっちはかなり納得しました。
 以下、思ったことをつらつら書きます。


 そもそも非実在青少年の性描写の規制ってかなりナンセンスな話ですよね。宮台はこれをかなり鋭く論破しています。


 ひとつは、非実在青少年の人権をベースとした尊厳(個人的法益)。つまり、例えば16歳の女の子を裸にしてそれを被写体にすれば、その女の子の人権は著しく侵害されているから、これは完全に罰則の対象になります。
 しかし、マンガの中の16歳の女の子がパンチラしたり、上半身を露出していたとしても、その女の子は存在しないわけですから、当然、法や条例の規制対象とはなりません。
 じゃあ、条例で罰せられるのは誰ですか。それを描いた漫画家さんですか?っていう話になります。でもこれでは、憲法における「表現の自由」を無視したものにならないでしょうか。それを表現する漫画家の権利の侵害にならないでしょうか。憲法最高法規です。憲法を守るのは国や地方自治体に所属する公務員たちです。当然、条例や法律を作るお役人もその対象となります。
 しかし、日本人はこれが分かっていないから、何でもかんでも厳罰化しようとします。お役人さんは、それを「味方」にどんどんどんどん法や条例の整備を進めていきます。今回の条例もその一端を担っていると思います。





 次に、そこから派生した「悪影響論」です。つまり、世の中に性描写の記事が蔓延しているから性犯罪が起きるんだ、という論理です。
 でも、性犯罪の件数は昔に比べたら徐々に減っています。それに、しずかちゃんのお風呂ぐらいで、性犯罪が起きますか。
 それに規制したところで、今の高度情報化社会の中では、そんなものすぐにかいくぐられてしまいます。エロ本が本屋からなくなったからって、今はインターネットで規制されることなく様々なエロ画像やエロ動画を見ることができる社会です。
 ここでも宮台は重要なことを言っています。

 ですから、効果研究から主流学説が推奨するのは、メディアの受容環境の制御こそが最善の策ということなんですね。それができない場合の緊急避難として表現規制があるべきだということです。

 これを僕なりに解釈すれば、アグネス・チャンのように、規制すべきだという意見を新聞やメディアで述べる意見を積極的に発言することは大いに構わない。テレビやネットがそれをふまえて社会的に規制することは大いに結構だ。しかし、それが漫画家など、表現する者の権利を侵害することに、直接結びつくのはよくない、と言っているわけです。
 つまり、「僕たち東京都は、そういう性描写のことを規制できないから、漫画家さんたち、書くのをやめよう、っていうか、おまいらがそういう変なの書いているから良くないんじゃ!罰するぞ、コラ」という逆ギレにしか聞こえないのです。
 もちろん、十分東京都は努力した上での結果だと思います。だったらその努力の矛先や効果を個人にまで求めるな、と僕は思います。



 これは個人的な感覚ですが、性欲というのは欲求のひとつです。ですから、大人が規制すればするほど、それをかいくぐろうとするやつがでてきます。性欲を描いちゃいけないのですか。描かなければ歪んだ性癖が出てしまって、逆に社会秩序を乱すことになりませんか?むしろ描くことで、健全な性欲を保つことってできないんですか?それをくさいものであるかのようにふたをしてしまったいいんですか?僕はそんな感じがするのですが。




 それから三つ目が、社会的意思表示論、つまり、規範の在り方なんですが、これは上で書いたので省略。





 いずれにしても、宮台は重要なことを言っています。ここは宮台のぶっちゃけ部分なので、かなり痛快、かつ最高な文章になっています。


 一般に、いろんな表現が転がっているということは、コミュニケーションを通じて「これどうなんだろうね」って議論をするチャンスであって、そういう議論を通じて自分たちがどういう社会で生き延びて行きたいのか決まっていくわけですよ。そういうチャンスを放っておいて、全部封殺して、社会について何をしようとしているんですか。あるいは何かというと社会を乱すヘタレというのは、子育ての資格があるんですか。全く普通の話をしてるだけなんですけど、日本では何かというとですね、「行政は何やってるんだ」「警察はなにやってるんだ」とか、騒音を隣の家に文句言わないで警察を呼ぶ。こういうありえないことに警察が呼ばれるわけですよ。自分で行って話してこいよ、っていう話はどうなってるんだよと。本屋に売ってたら本屋に文句言いに行けよ。なんで行政が出てくるんだよ。行政呼んでるやつは誰だよ。誰も呼んでないんだよ本当は(会場笑い)。行政官僚が「わたし呼ばれてます」って出てきてですね、キーキー言ってるだけなんですよ。お笑いですよね。

 現代社会は価値観の多様化、とよく言われています。同時に、コミュニケーションの不足、とよく言われています。この二つが組み合わさると、どうなるでしょう・・・。





 議論をせず、価値観の押し付け合いにならないでしょうか。





 そして、価値観同士がすれ違うから、第三者機関(裁判とか役所)を呼んできていないでしょうか。





 そして、それを行政が仲裁することで、行政権が肥大化していないでしょうか。




 我々は何でもかんでも役人に任せていないでしょうか。




 それでは役人は喜んで私たちの権利を縛ってきます。





 だって、




 「おまいら、オレたちに任せてきたじゃん。じゃあ、規制していもいいよな!?」



 ってことになりませんか。




 ゴキブリが出ただけで警察を呼ぶ(by ac)、そんなルールに依存した社会だから、役人はどんどんルールで縛ってくるんですよ。




 ただじゃれていただけで、「いじめ」と認定され、ロッカーを蹴っていただけで、「器物破損」と認定され、特別指導という名の権力による罰則を受ける、これは悪質な行為の抑止力にはなります。しかし、何でもかんでも罰則を与える社会でいいのでしょうか。




 日本には昔から「慣習」と呼ばれる概念がありました。これは、「自分たちで解決できることは、自分たちの中だけで解決する」というルールです。そしてそれは決して明文化されない、暗黙の掟でもありました。
 今の日本には、この「慣習」と呼ばれる考え方が消えてきたように思います。そして、「みんながやっているからやる」という何だかよくわからない「空気」を「慣習」と勘違いしている節があります。
 それを考えると、その「空気」を封殺する行政の考え方は合理的かもしれません。何でもかんでも証拠を集め、その証拠に基づいて罰する。警察がその罰則を担い、悪い奴はブタ小屋に押し込め、裁判で見せしめのように厳罰化する。
 でも、それでは行政の思うツボではありませんか。日本人というのはそんなにバカなのですか。



 「政権交代」のスローガンのもと、民主党に300議席も入れた日本人は民主主義というものを全く分かっていない、鳩山さんの政策がぶれているからといって、内閣支持率が下がっていく日本人は民主主義を全く分かっていない。
 そりゃそうだよな、今までは民主主義という名のもとに自民党の独裁だったんだから。



 何も考えなくてよい、そんな時代は終わったんです。だからこそ、今の社会をしっかり見ていく必要があると思うんです。一応日本は民主主義の国ですから、国や地方公共団体の暴走を止める権利を投票という形でもっています。だからこそ、しっかり考える力を身につけていかないといけないな、そして、こういう物事の「本質」というものを見極めていかなければな、と思いました。



 これ、公民だったら生徒から意見聞いたんだけど、地理だからなあ…、やれないし、やらないかな。