青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

物語を消費すること

 久々に長文をだらだら書きたくなりました。こんなことしているから、いつまでたっても職場では浮くんですよねww
 うちの学校は、工業高校なのでそれこそ中学では2とか、よくても3とかの生徒が多い。つまり、要領がそれほどよくなく、自分で考えることもせず、ただただ社会の流れに身を任せ、ただただボケーっと日々生きている奴らばかりである。
 これをうちのバレー部の主顧問の先生は、「ゆとり教育の優等生」と呼んでいるが、まさにそんな感じである。



 でも、だからこそ、彼らを見ると、今の社会が見えてくるような気がする。最近つとにそう思い始めた。
 そのきっかけとなったのが、この間読んだ『AKB48の経済学』である。そこから派生して、ついつい東浩紀氏の『動物化するポストモダン』を買ってしまったほどである(まだちゃんと読んでないけど)。今日は、それを自分なりに勝手にアレンジしてだらだら書こうと思う。




 彼らは何に興味をもっているか。周りを見渡してみると、1にアニメ、2にゲーム、3にカードで、4にアイドルである。うちの学校の昼の放送は、放送委員のチョイスでアニメの曲ばかりがかかるし、放課後になると、みんなで通信対戦でゲームをしたり、カードゲームをしたり。中には、教師の目を盗んでは授業中にゲームをする輩もいる(自分も授業中にやられた)。




 これをただやみくもに、「ダメだ!」と一喝するのは簡単だが、それではあまりに面白くない。ここはいっそ、「彼らがなぜこうしたものにはまるのか?」、そこから、「君たちは社会に流れ流されてかわいそうな人間だなあ」とシニカルに、教養高く批判してやりたいものだ。




 そこで何に注目するか、というと、ここで社会学や経済学の出番である。先に挙げた『AKB48の経済学』の田中秀臣氏は、経済学的に彼らがこうしたいわゆるサブカルチャーにはまる理由として、「デフレ」の存在を挙げている。
 



 その「デフレ」の背景にあるものは、当然、バブル崩壊後の長引く不況である。不況になれば、当然人々の財布のひもはきつくなるため、消費が落ち込む。だからこそ、金融政策として、消費を促進させるための方策を打ち出すべきなのだが、日本にはそれができるだけの体力がなかった。結果として、ますます不況へと陥り、財布のひもはさらにきつくなる→消費が落ち込む→物が売れない、物価が下がる→給料が下がる→財布のひもがきつくなる、といわゆる「デフレスパイラル」の状態となったわけです。




 このデフレスパイラルが、人々の文化に大きな変化をもたらしました。平成不況は平成とともに始まったわけですから、平成元年に生まれた人は、もう立派な成人になっています。彼らは生まれながらにして、「希望」も「夢」も「未来」も「目標」も見えにくい、見出しにくい世界の中で生きていかざるを得なかったのです。





 彼らの消費傾向にそれはよく表れています。例えば、今日、テレビ神奈川sakusakuという番組でスガシカオ白井ヴィンセント氏が、「バブルを知っている人とバブルを知らない人とでは酒の飲み方が全然違う。最近の若いやつは全然お酒を飲まない」というような発言をしていましたが、まさにそれが現在の若者文化そのものなんだと思います。





 つまり、バブルの時代の若者のあこがれは、スポーツカーに代表されるような「お金をかけた」品物でした。ところが、僕なんかもそうですが、今はそういう高級商品に憧れを感じません。分相応の生活ができていればいいし、そこそこ給料をもらったとしても、未だにOKマートの299円のかつ丼が僕のごちそうなわけです。




 このように近年の人々は、デフレによってお金をかけた消費活動を控えるようになりました。では、彼らは「消費」そのものをやめたのでしょうか。いいえ、決してそんなことはありません。彼らは「お金」を消費しない代わりに、「物語」を、「自分の心」を消費し始めたのです。




 この端緒となっているのが、大塚英志氏が提唱した「物語消費論」です。これは、「人々が自分たちで消費する物語を自分たちで消費する」ことを指します。これは、インターネット、ブログを通して、人々が自分の思いを発し、また他の物語を共有するというのが具体例となるでしょうか。しかもその物語は、政治や経済などに支配された「大きな物語」ではなく、自分自身や自分の周囲といった私的世界の「小さな物語」であると指摘します。




 つまり、1990年代から2000年代にかけて、カネをかけずに、自分の周りの私的な物語を共感し、共有するコミュニティができたってことですね。





 さらに東浩紀氏は、いわゆる「おたく」の分析を通して、この議論を「記号消費論」にまでもっていきます。東氏は「おたくは動物である。欲望のおもむくままに、自分が欲しいものだけを選んで、食べている動物」であり、かつ、「おたくは物語消費などしない。おたくの消費とは、単なる記号の選択でしかない」と述べるわけです。




 つまり、2000年代に入ると、共有するコミュニティが肥大化し、同じ物語であったとしても、自分の欲しい物語だけを、パーツ、パーツに区切って、それを取捨選択しながら消費活動をしている、とでもいうべきものでしょうか。




 こうした記号消費論の間隙をうまくついたのが、やっぱりAKB48なんだと僕は思います。
 例えば、AKB48というコミュニティがあったとしても、そこには48人の(研究生とか派生ものを入れると100人以上の)物語があり、しかもそれを受け取る側が自由に取捨選択する。いわゆる「推し」と呼ばれるのは、この範疇にあると思います。




 また、AKB48が売れた背景には、こうした社会学的な記号消費論だけでなく、お金をかけずに触れ合うことができる、というのが大きかったのだと思います。例えば、1枚1000円程度のCDを買うだけで、生のAKB48に会える、また、CDを買わなくても、フリーライブでAKB48を見ることができる、こうしたお金をかけずに、アイドルと触れ合える、というのが、やはり「デフレ」世代の若者のハートをがっちりつかんだのだと思います。





 カードも、1枚100円程度ですし、マンガだって1冊400円、アニメだってDVDを買えば高いでしょうが、最近ではyoutubeなどで無料で視聴することができます。
 こうした無料や、お金のかからない文化を、彼らは、自分の思うがままに取捨選択し、そうして文化を消費しているのです。






 前置きが長くなりましたが、「高校生にだってできる」、「お金をかけずにできる」、しかも大量にある情報の中から、記号のように自由に取捨選択する、そんな世界を彼らは生きているわけです。うちの学校の生徒は、勉強する習慣、生活習慣、問題ばかりですが、良くも悪くも「タブラ=ラサ(白紙)」の状態なので、現代社会を色濃く映しているわけです。




 社会科としては、現象分析をここまでにして「OK!おしまい」という風にしたいのですが、これをあくまで教育普遍の話にまで敢えて持ち込んでみたいと思います。そうすると、残念ながらありきたりな結論になってしまうかもしれませんが、それはご勘弁ください。





 僕は、現代社会を露骨に反映している彼らだからこそ、その現状に気づいてほしいという気持ちがあります。つまり、彼らがアニメ、マンガ、アイドル、カード、ゲーム、これらにはまることは決して悪くはない。いつの時代も子どもは、文化を生み出すものであるから。ただし、高校生にもなったならば、それに無自覚であってはいけない気がします。




 それにただただ満足しているだけでは、就職した時に社会では生きていけない。社会の現実に気づくことが必要である。そして、絶対に忘れてはいけないのは、まだまだ日本は、バブルの世代を知っている人が大勢いるということ。つまり、若者を自分の世界にのみ没頭した「オタク」、個人主義、コミュニケーション不全だと揶揄する人たちが大勢いるということである。




 もちろん、それを現象も見ずに放置している大人の方がよっぽど責任がある、そう言えるようになれれば、もう立派な社会人である。シニカルな教養者である。ただ、だからこそ、日本で生きていくためには何をしなければいけないのかをもう一度、考えてほしい。





 授業中にゲームをやること、放課後にゲームをやること、これは学校にとって必要なのだろうか。学校はゲームをやる場所なのだろうか。ゲームだったら家でもできるのではないか。学校は通信対戦をする場所なのだろうか。
 学校は本来、自分が知らないことを知るための(知的探求心を満たすための)場所である。そのために、教師がいる。ゲームをする欲求に教師は必要だろうか。それは探求心でなく単なる欲求でしかない。




 なるほど、オタクな人間は欲求の塊であろう。でもだからこそ、オタクは「所詮オタクだ」と否定されるのである。学校は欲求を満たす場ではない。欲求を満たしたいなら、外に出ればいい。その方が欲求を満たすことができるはずである。




 でも、学校はそんな場所ではない。欲求をおさえ、社会で生きていくための術を学ぶ。知的探求心を満たすために学ぶ。そんな場所が学校の本来のあり方のはずだ。




 最後は道徳めいたものになってしまった。けれど、社会をきちんと分析すること、分析したうえで最低限のルールとは何かを追究すること、これを今の高校生のうちに身につけるようにしてほしい。そのために、僕は勤務校で働いていこうと思う。