改めて学力を考える
何か最近、久々に過去の日記を読んでいるのだが、
http://d.hatena.ne.jp/aoimori/20100108#1262960916
(学力について、2010年1月8日)
これを読んだ時、改めて「なるほど」と思ってしまいました。ねえ、自分で書いた文章なのに。かなり毒づいてもいるし。
教職に就いて間もなく1年。改めて学力についてだらだら書いてみたいと思います。
うちの学校は工業高校です。多くの生徒がいわゆる通知表的な「学力」でいうと、どんなに高くても平均3〜3.5ぐらいの生徒が入ってきます。
中には、数学が0点でもうちの学校に入ってくる生徒がいます。来年はそんな感じらしい。
でも、数学が0点だから彼らは落伍者なのでしょうか。
もちろん、うちの学校の生徒は勉強するには厳しい家庭環境にある生徒が多いことは間違いありません。でも、彼らは「だからダメ」なのでしょうか。
僕はそんなことはないと思います。
特に僕はバレーボール部の生徒を見ていると、それを強く思います。
確かに、彼らはバイトもしなければいけないほど、家庭環境は厳しいと思います。
でも、彼らに「考えるプロセス」を与えると、彼らはどんどん考え出していきます。
要は、良くも悪くも彼らは「教育を一切受けていない」のです。
だからこそ、言い訳が多いし、それが直されていない。バレー部の主顧問の先生なんかは、うちの生徒を「ゆとり教育の優等生」と言います。
これ、本当にいい言葉だなあ、と思います。
1年前の記事に書いた通り、ゆとり教育はエリート教育であり、放任教育です。要は「教育行為の放棄」とイコールなわけです。
だから、親の教育や経済環境がよければそれだけ多くの教育を受けられますが、悪ければ一切の教育を受けられないことになります。
おまけに近年では、学校の序列化が激しく、一度学力的に下位の学校に入ってしまうと、そこから這い上がることは極めて難しくなります。東京大学の社会学者、本田由紀氏はこれを「ハイパーメリトクラシー」と呼ぶわけです。
まあ、うちの学校は工業高校だし、どう見ても下位の学校なわけです。だから、入ってくる生徒も「ゆとりの恩恵」を悪い意味で受けた生徒ばかり。授業中はうるさいし、注意してもすぐに言い訳をする。自分がよければすべて良く、周りのことは関係ない。
良くも悪くも社会の波にそのまま飲まれた子どもばかりなわけです。
でも、うちの学校には一発逆転のチャンスが転がっていると自分は思います。
この就職氷河期の中、今年の3年生は就職希望90名中、50人が一発内定をもらい、もうほとんどの生徒が就職を決めています。下手にプライドの高い大学生よりもよっぽど賢い人間に彼らは成長しています。
これも僕は教育の成果なんだと思います。彼らだって1年の時は絶対にダメダメだったはずなんです。だけど彼らは何がすごいか。
僕は、彼らの「団結力」がすごいんだと思います。
1つの物事に対してチームを組んで何かをする、そのためには自分の時間を惜しまない。僕が付き合ってきた3年生、就職を一発で決めた3年生はそれができていました。
これは工業高校だからできる技なのかなあ・・・と。
うちの学校は、例えデザイン科であっても、「世のため、人のためになるように」と徹底的に教わります。これを先生方がスクラムを組んで教えるのです。
もちろん、これになじまない生徒もいます。でも、これをきちんと真面目にこなす生徒は、やっぱり18にしてきちんと就職を決めてしまいます。
1年間、技術はダメダメですが、バレーボールというものを通して学んだことは、「みんなで1つのものを作っていくことの大切さ」でした。そしてそれが、今の子どもには欠けていて、その欠けているものを満たしている人ほど、きちんと社会で生きていける人間に育って卒業していくんだ、そう感じました。
ありゃ?気づいたら学力とは遠く離れてしまった(笑)。
でも、学力の根幹はそこなのかなと。結局、「学力=結果」ととらえるがゆえに、今の教育は硬直しているのかなと。「学力=プロセス」ととらえ、そのプロセスをいかに構築していくか、これが大人にも子どもにも求められているんだなあ、って強く思うよ、うん。
2年目も頑張ろ。