震災から学ぶこと
今、「日本人らしさ」が試されている、そんな感じがします。
海外から見た「日本人」というのは、マナーがよく、礼儀正しい。
それに、他人を思いやる気持ちがものすごくある。「我慢」「協力」というのは実に日本人らしい概念である。
元々島国で、資源に乏しかった日本では、限られた資源の中でいかに生きていくか、それを常に問われてきた。特に、江戸時代の260年にも渡る長い時代、外国との交易を限り、自国の資源だけで人々が生活できたのは、ひとえに「人的資源」が豊富だったからだといえる。
江戸時代は、例え共同体の中から仲間はずれにされていても「村八分」。つまり、冠婚葬祭にあたる残りの「二分」は共同体が何だかんだで面倒を見てくれたのである。
明治〜昭和という、いわゆる近代の時代、日本がものすごいスピードで文明国となり、戦争にも勝利し、欧米と肩を並べるにまで至ったのも(いろいろ解釈はあるだろうが)、やはり日本人の「誰かの為に自分がある」という考え方と、個々人が「協力」していた賜物だと思う。
ひるかえって今はどうだろうか。
グローバル化が進み、海外との競争が進展する中で長期的なビジョンを見失い、明日も見えない世の中。その日さえ何とかしのげればいい。「協力」したってどうせ無駄だという風潮。「自分さえよければ他人はどうだっていい」という個人主義。「自分を売り込むための材料が欲しい。そのためには他人を利用したって構わない」という成果主義。
今、日本は世界に振り回され、完全に「日本とは?」「日本人とは?」というものを見失っていたのではないでしょうか。
某都知事は、今回の地震を「天罰だ」と暴言を吐きました。その記事はメディアで取り上げられることはほとんどないですが、新聞でこの記事を読んだ時、僕は少し納得してしまったんです。
いや、本当は納得しちゃいけないんです。被災地の人たちを思えば、十分に生活できている自分がそう思うこと、それをここに書くことはブログ炎上の的になってしまうのかもしれません。
でも僕は思うんです。
かつて地震や火山噴火などの災害は天災と呼ばれ、日本を治めている為政者が全く国のことを思った政治をしていなかったときに起こると言われていました。最近富士山が噴火したのは、徳川綱吉の時代だったし、幕末の安政期にも大地震が起きています。1995年の阪神・淡路大震災の時も、バブル崩壊の影響が社会に蔓延し、政治不信が起きている中に起きました。
こういう歴史を振り返ってみても、やっぱり僕は、今回の地震は日本に対する天災なんじゃないかな、って思ってしまうんです。
「日本よ、しっかりしなさい!」
そんなメッセージなんじゃないかな・・・って。
だからこそ、
だからこそ、
今一度、かつての日本人が持っていた「思いやり」とか、「他人への気遣い」、「他者を思いやる気持ち」、「みんなで幸せになる」、「みんなで他人の不幸を一緒に共有する」、そんな気持ちや心を取り戻すチャンスなんだと思います。
起きてしまった災害を後悔しても何も始まりません。重要なのは、起きてしまった過去(歴史)から、我々が何を学ぶかだと思います。僕は、この地震を通して学ばなければいけないことは、「他人を思いやる気持ち」、これこそが今の日本人、政治家、官僚たちに欠けていることなんだ、だから今一度、この心を取り戻さなければならない。そう、強く感じるわけです。
遠くから微力だけど、買いだめをしない、節電をする、そういう小さなことだけでもやっていこうと思います。