青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

 今日は秋葉原で、9月に学会発表をするものの打ち合わせ。僕はやっぱり歴史学→社会科教育学の流れなので、教育学には疎いな、と改めて感じた。
 ただ、社会科におけるテストと学習方略との関係性は、かなり面白い研究になりそうだ、ということだけは感じた。
 後は、自分の日本史Aがどうなるか…。



 ちなみにアキバによったので、本を買って帰ってきました。
 ちなみに今はこれを読んでいます。
 

ポスト戦後社会―シリーズ日本近現代史〈9〉 (岩波新書)

ポスト戦後社会―シリーズ日本近現代史〈9〉 (岩波新書)




 これに挙げていた、ディズニーランドとオウム真理教の共通点、という見田宗介さんや大澤真幸さんの論にも興味を持ちました。ちなみに共通点は、「虚構性」という言葉でくくれるみたいです。つまり、「現実からの逃避」と、「現実を物語やゲームとして消費する」、そんなイメージらしいです。
 この世の中に真実なんてものは存在しないと言われ始めたのもこのぐらいですよね。
 モノが豊かに溢れる時代になり、人々がお金を何に消費するかが選択できる時代になったからこそ出てきた現象だと思います。スポーツカーを買う、ビックリマンチョコを買う、ディズニーランドに行く、「非現実な」世界を消費することで、「リアルな」世界を生きる、そんな時代が1980年代に来たわけですね。
 ちなみにオウム真理教も、教義の中にゲーム的な要素を入れたり、現実とは隔離した、「非現実な」世界を作り、それを消費させることによって成り立った宗教団体だともいえるわけです。




 ちなみに現在は、この「非現実な」世界がさらなる拡大をし、しかも「デフレ」の世の中で、ますます人々は「選択的な」消費を迫られている。そこで求められているものは、「物語」であり、人々はその「物語」を消費する形で、経済活動を行っている、それをソーシャルメディアやブログなどの形で行い、握手会という形で、「非現実な」彼女たちと、「現実世界」で触れ合えるようにしたのが…そう、AKB48なわけですね。




 ちなみに東大の院生のブログでは、彼女たちのことを「代替不可能な個」の物語とし、いわゆる従来の、「代替可能な商品」として「物語」としてAKB48をとらえることをかなり否定しておられましたが、「代替不可能な個」としての「物語」であるならば、5年後、10年後にもきっとAKB48は残っていることでしょう。僕は、かつてのモーニング娘。の事例もあるから、きっとメディアによって、「代替可能な商品」としてAKB48も消費されてしまうような気がして仕方がないのだが、どうだろうか。これはやはり僕が、アイドルの誰かを「推し」に出来ず、その時々によって「推し変」をしたり、「DD」であるからだろうか。




 そんなことを考えてしまいました。




 あれ、これは日本史じゃないぞ。完全なる社会学だ。でも、ディズニーランドとオウム真理教の関連性は、話題としては面白そうだね。ただ、歴史じゃないけど(笑)。しかも、絶対理解してくれないと思うわ。