青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

『教師のゲートキーピング〜主体的な学習者を生む社会科カリキュラムに向けて〜』

 

教師のゲートキーピング―主体的な学習者を生む社会科カリキュラムに向けて

教師のゲートキーピング―主体的な学習者を生む社会科カリキュラムに向けて


 日社学の時に買った本ですが、ようやくまとまった休みができたので、読書感想文を書きます。以下、長くなりますのでご了承ください。


 この本は、大学院時代のゼミの指導教官の先生が邦訳された本。著者はアメリカの教育学者であるスティーブン・ソーントンという先生です。
 ここで気をひくのは、「ゲートキーピング」という単語です。ゼミの先生がなぜこの本を邦訳したかは、「あとがき」に書かれている著者の主張を4点にまとめて訳者が書いているところにつきます。長いですが、そのまま引用します。

(1)社会科の教育改革は、常に公的カリキュラムの変革によって行われると考えられてきたが、人々が考えているほどには、公的カリキュラムは学校現場の変革を起こすことはあり得ないし、これまでも引き起こしてこなかった。


(2)なぜなら、カリキュラムを実行する教師が、意図的にせよ無意識にせよ、自らの問題関心や教育観、価値観などから時として公的カリキュラムの設計者の意図とは反する調整を行うためである。こうした教師の行為を「ゲートキーピング」と言う。この教師のゲートキーピングの質が、社会科授業の良し悪しに影響した。教師は質の悪い公的カリキュラムの改善者になることもあれば、質の良いカリキュラムの妨害者になることもあった。注目しなくてはならないのは、こうした一人ひとりの教師によって「実際に行われているカリキュラム」である。


(3)社会科教育の改革は、一人ひとりの教師によって「実際に行われているカリキュラム」を改善していくしかない。そのためには、社会科教師個々のゲートキーピング能力を改善していく他にない。それに当たって、公的カリキュラムを無批判にただ実行していく下請けとしての教師ではなく、教師自らが社会科のねらいを考え、そしてこれを意識して、目標、教育内容、教育方法を連続的に考察・判断していける「主体的なカリキュラムと授業の調節者としての教師」を育てていく必要がある。なぜなら、そうしたことのできる教師がこれまでも質の高い社会科授業を実行できたからである。


(4)教員養成も、教師はただ公的カリキュラムを忠実に「伝達する」存在とせず、また社会諸科学の最新の学問的成果を子どもに噛み砕いて解説する存在とせず、カリキュラムをデザインする存在に育てていく必要がある。

 これ以上でもこれ以下でもないまとめだと思います。ここに、今の日本の社会科教育が抱える問題が凝縮されていると思います。
 また、「ゲートキーピング」を敢えて邦訳すれば「調節者」となるのでしょうが、それを敢えて邦訳しないところもいいですね。日本で「調節者」とすると、どうしても「止揚アウフヘーベン)」や「二項対立の真ん中」「どっちつかず」っていう印象になりますからね。



 ゼミの先生がねらいとしていることは、大学教員ですから、当然「教師論」や「教員養成論」に目が向けられるところでしょうが、自分は研究を離れ、現場に出て2年半経つので、現場という立場から、この本が示唆することの意味について思うことを書きたいと思います。




 私は現在、実業系の学校で日本史Aを教えています。学習指導要領上では、日本史Aという科目は、江戸後期から現代までの、いわゆる「近現代の歴史」の「展開(流れ)」を重視する学習となっています。
 でも私は、「生徒の実態」と「授業時数」などの観点から、今年度は1945年以降の歴史にしぼって教えています。この地点で、私は公的カリキュラムに則りながらも、それを超えた指導をしているということになります。
 この前の研究授業の際には、公民や世界史の先生方から、「学習内容の関連性(例えば政治を教える際には、自由民権運動日本国憲法は教えて欲しい、また、世界史では人類の成立史から教えるので、近代という接着剤で歴史をつないで欲しい)という観点から、近代も教えてくれ」と言われるので、私のカリキュラムデザインが必ずしもよい方向には働いていないとは思いますが、少なくとも私自身もカリキュラムデザインをしているし、公民や世界史の先生だって、カリキュラムデザインをしているわけです。その上で、日々の授業があるわけです。



 もちろん、教科書をそのまま教える先生方だって、「公的カリキュラム」という「カリキュラム」に則って書かれた教科書の「用語」をいかに教えるか、を考えながら、学習方法(プリントを使うか否か、など)を考えているわけです。



 その時に大事になってくるのは、内容・方法だけでなく、「目標」となるわけですが、私が現代史に着目した理由は、今思えばいろいろありますが、一番は、「現代社会を生きていく人間として、現代社会に一番近い歴史だけは最低限知っておいて欲しい」という理由ですかね。
 また、現代史における教材選定も、実は中国や朝鮮の問題って今思えばあまり触れていないんですよね。政治とか、特に経済については多く触れているところでしょうか。
 歴史学を学んできた人間が、なんで触れないんだ、って怒られそうですが、そこも自分の教材の選び方なんだと思います。




 また、私にもある程度の歴史学習の理想はあります。個人的には加藤公明氏のような「考える日本史学習」なんかがそれですけど、それを日本の、しかも近現代史でやることは、内容的にも資料収集の面でも非常に難しく、かつレベルが高い問題であるし、仮にやれたとしても、議論が感情論で終止してしまう。おまけに、現在の勤務校の語彙力のなさを考えると、これはとてもじゃないけど、できない。
 さらに、当てたところで、答えてくれない、または、ふざける生徒も多々いるため、それならこっちで、内容を分かりやすく教えたほうが学習効果は高いだろう、ということで、歴史学習の理想を傍らにはありつつも、生徒の現状を見ながら授業をしています。



 ただ、自分の理想の原点はどこにあるか、といえば、やっぱり大学時代の歴史学と、大学院時代の社会科教育学にあるわけなので、大学での教員養成論はすごく重要になってきます。



 また、現場に入ってしまい、目の前の児童・生徒のことでてんやわんやになってしまうと、どうしても「研究する」とか「俯瞰してみる」「長期的にみる」という視点が欠けてしまいます。
 だからこそ、俯瞰したり、長期的に見てくれる研究者と、目の前の児童生徒を一番見ている現場とをどうしてもつながないといけないでしょう。



 その時に、「あるべきカリキュラム論」「あるべき授業論」を大学で学ばないと、特に社会科の場合は、「暗記科目」とか「つまらない」という子どものオンパレードだし、それが拡大再生産されるだけだと思います。
 



 さらにいえば、特に歴史学習では、「内容」か「方法」かの二元論に陥りがちです。しかし、そもそも教育とは、「目標・内容・方法」が一体とならなければ効果を得ることは難しくなります。その「目標」が「歴史学教育」となったり、「歴史学の最新成果を解釈として追体験、あるいは議論させる」ことになるのも、再考する必要があるように思います。




 最近、社会科教育学の学会で叫ばれている「研究者」と「実践者」のコラボを考えるとき、この「ゲートキーピング」という概念は非常に有効であると考えます。同時に、「実践者」が自分の実践を振り返るときにも、この「ゲートキーピング」という概念は有効になってくるのではないでしょうか。この本がその理論的支柱となり、社会科教育研究がさらに発展していくような気がします。



 ちなみに来年は、日本現代史をやっていろいろ分かったことや、社会科の先生方に言われたこともいろいろあるので、それをふまえて、現代史の内容そのままに、時数を圧縮して、近代史も教える予定でいます。まあ、これも「経験」だと思って、今いる勤務校では好き勝手にやろうと思います。