青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

 がっつり3連休だったわ。
 最近、社会学者の新書を読むと、2010年代の社会が見えてくるので、なるほど、と思う反面、学校社会というのはいつまでも20世紀的な教育観が蔓延しているし、自分もそれはそれで必要だと思っているから、どうしても(担任を持つとなおさら)そこのギャップがすごい。
 今日の朝日新聞に、遊びを社会にいれよう、とか、正答のない問題を、などと色々と言っているみたいだけど、やっぱ自分にはそれに対して一歩踏み出す自身はないよね。
 何で読んだか忘れたけど、1990年代頃から、いわゆる正答主義的な教育観は崩壊し、欧米的な答えのない問題を、コミュニケーションによって見つけていく、科学者的な探求を求める教育観が求められてきたみたいだけど、
 どうなんだろうね。
 少なくとも自分が今いる勤務校では、それをやるつもりは更々ないけどね。
 でも、片や他のレベルの学校ではそういった授業をやっているようで、本当に高校間での格差はでかくなる一方だよね。
 前の朝日新聞に、格差を多くの保護者が容認しているという記事があったけど、本当にそれでいい、って言うんだったら、もうね、教師いらないよね。ケータイの使い方を、誰からも教わらず試行錯誤しながら覚えていくのと同じように、勉強も必要な人間が、必要なだけ学びに来る、っていうスタイルに変えた方がいいよ。
 でも、そうなったら公立学校っていらないよね。まあ、義務教育ぐらいは必要だけどして、公立の高等学校がいらないよね。
 そんな話じゃん。
 でも、何の目的もなく、とりあえず高校くるっていうやつもいるじゃん。
 そういうのは、社会に出て社会の中で試行錯誤しなさいよ、って言いたくなるんだけど、まあ、学校ってとりあえず言ってれば安心みたいなところが親にもあるからね。
 そうなりゃ学校は完全に託児所だわね。
 でも、学校って託児所じゃねーからさ。
 ぶっちゃけ16になればバイトはできるんだからさ、学校に適応できない生徒はさ、そういうので生きていくのもひとつの選択だと思うよ。
 日本は既に成熟しきった社会だから、何かを決めるにしても、かつては何を「生み出す」かを決めていたけど、今は何を「捨てる」かを議論しなじゃいけない、ってどっかに書いてた。そうなると当然そこには、「捨てられちゃう」人間がいるわけだからね。
 今日のフジテレビの朝の討論番組なんかも、パソコンしながら流し見だったけど、団塊の世代の雇用をどうするか、っていう話で、ある論客が「そもそも日本型の、みんなが管理職になるようなシステムがおかしくて、実力主義的なものをどんどんいれようぜ」みたいなことを言っていて、そこで何かまとまっていた感じがしたけどさ、
 そりゃあんたらみたいに、生き残れるやつらはいいけど、そこで「捨てられちゃう」人間はどうすんのさ、って話よね。
 やっぱり学をつけないと、「捨てられちゃう」んだよね。申し訳ないけど、高校って、適応できなきゃ次の道を探してもらうしかないんだよね。できないやつは、自分から「捨てられちゃうほうの道」へ歩んでるんだよね。
 まして今は言葉でわからないやつをからだで教え込むことが一歩間違えば、「体罰」ってなるわけだから、できないやつは本当に、誰からも相手にされず、何も教わらずに、そのまんま大人になっていく社会だよね。
 自分のクラスから進路変更していったやつらがそうなってしまうことに、自分は危機感を抱くよ。
 でも、申し訳ないけど、じゃあ自分がそいつらを面倒見てやるか、って言ったら・・・
 僕は鬼塚英吉じゃないので嫌だね。
 むしろ僕は、ちゃんと頑張っているやつらが、ちゃんと頑張れることの方が大事だと思うから。
 やっぱり僕も2000年代以降に生きた人間なんだなあ。