青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

社会認識教育ゼミOB会2

 今回の研究会のテーマは、偶然にも(意図していなかったんだけど)、「社会科における探求授業をいかに作るか」というのがテーマだったと思います。今回は、現職5年目の自分、そして学部3年生で教育実習前のゼミ生、さらには初めて教授書作成を行った岡山大学の学部3年生の3組がそれぞれ授業を持ち寄って発表をしました。それぞれの授業を簡単に紹介します。


 まず、自分が持ってきた授業は、東京都が独自に作成している準教科書『江戸から東京へ』を活用し、現在の勤務校の近くにある公園を取り上げ、ここがかつては工場であったことをつかませ、「なぜ、工場が公園に変化したのだろう?」という主発問(MQ)を通して、1980年代の歴史をみていく授業です。
 まずは、立地論の問題なので、生徒に少しだけ予想させます。単純に言えば「工場がつぶれたから」。では、なぜつぶれたのだろう?とさらに問い、最終的には「貿易摩擦」・「プラザ合意」・「産業の空洞化」という3つの単語を使って、その答えを自分で文章化してみよう、と問う授業になります。
 ゴールとしては、「貿易摩擦によるアメリカからの批判や、プラザ合意による円高のデメリットを避けるため、企業が海外に工場を移転するという産業の空洞化が発生したため、国内の工場が減り、空いた土地を公園として活用したため」という答えを、生徒に書かせる、というものになります。実際の勤務校では、この授業を2年目から4年目まで、合計3年間やり続け、去年からはクラスで代表を出して、黒板に書かせ、それを模範解答にして、実際のテストで出題するという形式をとっています。



 次に学部生の授業は、日本古代史・中世史における貨幣流通をテーマにした授業。主発問は「なぜ古代において貨幣が発行されたにも関わらず、貨幣の流通は衰退し、中世において貨幣が再び流通したのだろう?」というもの。古代においては、富本銭、和同開珎、皇朝十二銭がキーワードとなりますが、奈良時代に都市を中心に流通していた貨幣が、平安中期の乾元大宝を最後に、貨幣の使用がストップしてしまう、その表を提示し、なぜそうなるのだろう?と問います。
 実は皇朝十二銭を比べてみると、江戸の小判と同じように、貨幣に含まれる銅(江戸は金だけどね)の割合が段々と減少しており、最後の乾元大宝になると、大きさも小さく、ボロボロになっています。当時の人たちは貨幣価値を落とすことで、お金をたくさん作り、それを公共事業費等にあてていたわけです。とりわけ平安時代には軍事と造作(都の建築費と蝦夷成敗の軍事費)がそれにあたります。
 ところが、この時代には経済学の考え方がないので、これがインフレーションを招き、人々の生活に影響を与えたこと、また、貨幣価値の下落とともに贋金が出たことで、結局お金としての価値を失っていったわけです。
 それで再び貨幣に注目が集まるのが平清盛の時代。この時代に中国から宋銭が輸入され、再び貨幣が使われだすようになります。この時代に中国では銅がたくさんとれたことなどによって、質の良い貨幣だったようです。そして、鎌倉時代になると、農業技術の進歩や気候の温暖化などにより、余剰生産物が生まれ、それを市で取引することで、貨幣が再び使用されるようになるわけです。
 模擬授業では古代の部分を中心に行っていました。



 それから岡山大学の学生の授業では、「なぜアフリカでは紛争が多発し、犠牲者が多く出ているのか」という教授書の紹介で、一部は授業形式で行っていました。探求主義の授業なのですが、教科書的には紛争が起こる原因は、多民族国家であるため、つまり、欧米列強の植民地時代に勝手にひかれた国境などにより、民族同士がいがみあって・・・という風になるかと思いますが、その常識的な考え方ではない視点から、紛争を読み解いていこう、という科学的探究主義の典型的な授業でした。
 視点としては、①経済(エリートの富が集中する構造)、②大国とのかかわり(資源と武器のやりとり)、③政治的要因(支配集団による少数派の弾圧)、④メディア(メディアによるネガティブキャンペーン)の4つがあることを、シエラレオネルワンダの国を事例に取り上げ、最後にコンゴ民主共和国を事例に、自分で紛争の原因を分析しよう、という授業になっています。




 今年はどれも面白い授業ばかりでした。授業の評議会では、以下のような意見が出ました。
 まず、自分の授業と学部生の貨幣の授業については、2つの授業後に比較・検討する討論が行われました。結論からいえば、自分の授業は、実は探求主義の形をした理解主義の授業(ストーリー、オチのある授業)で、子どもの常識をこえるような授業になっていません。オチも答えも教科書(江戸から東京へ)に書かれている内容であり、それをただやりとりをしながら教師が説明しているだけの授業になっています。
 ただし、自分は現在の勤務校で意図的にやっている部分もあります。生徒の大半は、社会のことについて知らない、あるいは社会について探求する意識が低い、問題を問うたところでやらない、そんな生徒たち。そんな生徒たちに対しては、まずは教師の側が視点を与えたり、教科書的な知識を組み合わせて文章を書かせる、そういうところからスタートしてもいいのではないか、そういう意図がこの授業にはこめられています。
 社会科の授業的には、認識を閉ざしていたり、知的には実は面白くない授業なのですが、生徒の探求の追体験を行わせ、それを文章で表現するエセ探求主義(俺が説明してやるよ授業)も、生徒の社会認識を深める初期段階としては重要なのではないか、で、そこから社会に関して興味を持ってくれれば、それはそれでアリかな、と自分では思っています。さすがはWゼミの大学の学生たち、そこは見事に突いていましたね。大正解です。
 ただ、手法的な部分や、具体例を提示すること、さらに目標を最初に提示し、そこに向かっていく授業スタイルについては、お褒めの言葉をいただけました。励みになります。



 次に、学部生の貨幣の授業ですが、知的には面白いのですが、実は途中授業が停滞した部分がありました。貨幣の材質の話(銅と鉛の違い)の部分です。答えにたどり着くためには必要なことなのですが、ここに時間を取りすぎていました。正直、自分も途中飽きてしまいました。
 探求主義の授業の弱点は、1つ1つ科学のように証明していくスタイルにあります。この資料からこのことが言えるよね、この資料からこのことが言えるよね、という形式で授業を進めすぎる(予定調和的になりすぎる)と、生徒の認識と、教師の意図とのズレが生じ、何だ、結局押しつけかよ、ん、分からん、となってしまうことになります。とりわけ歴史における貨幣のような、教科書にはほとんど触れられていない部分を扱う際には、生徒の既有知識や認識で授業が大きく左右されてしまいます。
 個人的には面白かったのですが、それはあくまで自分が社会の先生だから、という話。なので、これを授業実践に落としていく場合には、資料の精査が必要だし、少し資料が多かった、または、古代から中世という幅広いところを1時間でやろうとしてることなど、様々課題はあるかと思います。
 ただ、工夫のしようかな、と。たとえば、古代においては1000年〜1100年の間は、貨幣の使用がゼロになります。これは自分も驚きでした。それまでは全体の流通シェアで35%ぐらい誇っていたものが、突然のゼロです。これは不思議です。そのインパクトから、なぜ?と問うのは面白いと思います。
 また、鎌倉時代の貨幣使用を説明する(理解主義っぽくだけどね)機会がこれからあるのですが、よく加藤公明氏が自由討論学習で使用する備前国福岡市の絵巻の季節を聞き、実は冬だったんだよ、実は温暖化だったんだよ、温暖化になると東南アジアみたいな気候だから、気候的に二毛作や三毛作できるよね、そしたら生産物余るよね、したらそれ、売るよね、貨幣流通するじゃん、それだけでも、明日から中学でも高校の授業でもヒーローですよ(笑)。とりわけ歴史における経済事象の説明は、社会科教師の忌避するところですが、そうしたことを説明することこそが、実は社会科教師の腕の見せ所なんですよね。そういうネタを提供してもらっただけで、自分としてありがたかったです。ごちそうさまです。
 内容や資料の精査、時間設定等に課題はありますが、探求主義の授業としては知的に面白い授業でした。何せ、自分が面白くて、もっと調べてみたい、もっと質問したい、と思えたんですから、これはこれで大成功の授業だと思います。
 ちなみに探求主義的な授業を作ってみたいのなら、実は東大の入試がいいらしいです。ということは、こうした探求主義の授業が、実は進学校の授業でも、十分生徒の目的をもってやらせることが可能だ、ということの証左ですよね。人間、学ぶ意図がないとやらないですからね。
 ちなみにちなみに、自分はかつて1930年代の経済政策を金解禁、世界恐慌、管理通貨制度などの単語を使って説明せよ、という東大の問題を使って今の勤務校で授業しようと思い、少しやってみたことがあります。・・・結果は撃沈でしたけど。ただ、どの学校に行ってもそういうチャレンジスピリッツをもって授業しないと面白くないと思います。




 そして、岡山大学の学生の授業は、教科書的には多民族国家である、と書かれているところに疑問を抱き、本当にそうなのか、もっと他に理由はないか検証するという点で、科学的なアプローチをとっていて、しかも実際の資料が提示されていたり、授業形式でそれらを落とし込んでいたので、こちらとしてもわかりやすく、使いやすいものばかりでした。
 特に、フツ族によるツチ族の大量虐殺の背景には、ラジオが大きくかかわっていて、悪口を言うネガティブキャンペーンから、対立を作り、隣人同士で殺し合いをさせるというのはショッキング以外の何物でもないわけですが、そうしたメディアがネガティブキャンペーンをはること、また、政府が政権の安定を図る(不満をそらす)ために、誰かを悪者にするというのはよくある話で、それを政府主導で行っていたという事例も、これまた衝撃的ですよね。
 ただ、こうした事例は別にルワンダに限ったことではなく、中国の反日運動だってそうだし、日本でのヘイトスピーチも、こうした事例にあてはめれば、証明されてしまうわけですよね。
 紛争というのは、民族同士がいがみあっていることに変わりはないのですが、そこには必ず複合的な要因があったり、第三国がからんでいたりするわけで、そうした視点を抜きには語ってはいけないですよね。紛争を考える上では、本質的な授業だし、分析視点も明確。
 ちなみに今、地理の授業でアフリカを取り上げているので、時間はないけど、せめて紛争を分析する視点ぐらいは、教えようかな、と思っています。いい資料をもらえました。




 今回のOBゼミは、どの授業も明日使えるようなものばかりだったし、自分の授業の振り返りにもなったので、とてもためになりました。