青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

『社会科教育研究』を読んで②

 岩崎圭祐「教師が個人的な見解を表明することの教育的効果ー政治的中立性に関する議論への一提言―」

 

(内容)

 日本では、論争問題学習をする際、「政治的中立」という観点から、「教員が特定の見解を自分の考えとして述べることについては、教員の認識が生徒に大きな影響を与える立場にあることから、避けることが必要」とされてきた。

 これは、日本の社会教育研究においても同様であり、「生徒の自主的な意見形成を目的とする上での阻害要因となる可能性がある」、「教師の発言に影響されやすい環境下にある日本の子どもたちに対しては特に慎重になるべき」などと述べられている。

 しかし筆者は、米国の研究動向を通して、個人的な見解表明を擁護する立場から、論争問題を扱う教師の役割について再検討している。

 米国研究でケリーは、論争問題に対して教師がとりうる役割を次の4つに分類している。

 ① 論争的な問題を授業から排除する「絶対的な中立」

 ② 教師が考える正しい、または好ましい立場を教える「教師の見解の教え込み」

 ③ 論争問題を授業に取り入れる際に教師は個人的な見解を控え、ファシリテーターに徹する「中立公平」

 ④ 論争問題について教師も個人的な見解を述べ話し合いに参加する「積極的かつ公平な取り扱い」

 

 ケリーはその中でも④の立場を最も支持している。そして、米国でもこの立場の再評価が進んでいる。

 例えば、ジャーネルが行った調査では、「政治的な立場を表明しないことによって、教師は政治的な見解を述べた教師よりもより影響を与えている」ことを結論づけている。それは、教師の政治的な立場を知る機会が豊富に用意されていないことで、かえって意図しない形で表出する教師の政治的見解が「真実」としてとらえられるのではないか、ということである。

 その例として、ジャーネルはライアン教諭の例をあげる。ライアン教諭は教室内で個人的な見解を表明する一方で、その問題について必ず両論を提示する教師であり、時には意図的に自分とは異なる立場に立つことで、生徒の意見形成を促している。こうした行為は、生徒にとって「寛容な見解表明のモデル」となると主張するのである。

 つまり、ジャーネルは「積極的かつ公平な取り扱い」は、生徒が教師をモデルとして、根拠づけの仕方を学ぶというような意見形成の方法を学ぶだけでなく、対立する立場を尊重し、熟議する市民に必要な振る舞いを学ぶという点で教育的効果があると指摘するのである。

 その対となる事例として、「中立公平」の立場をとったモンロー教諭の事例を取り上げている。ここでは、アイオイ州の公立高校に「モーゼの十戒」が書かれたモニュメントが建造されたことについての議論を取り上げている。結果、ほとんどの生徒は、キリスト教を信仰する人々が多いアメリカにおいて、十戒を学ぶことを強要されなければ、掲示することは許されると回答した。モンロー教諭は資料を通して多様な意見に気づかせようとしていたが、「モニュメントが寄付ならどうなの」「キリスト教徒と比べたら、イスラム教徒はアメリカではそんなに多くない」など、議論が異なる方向へ進んでいる。

 ここで教師側が、「このモニュメントは修正第1条の侵害であり、撤去されるべきだと思う」と語っていればよかったのではないか、とジャーネルは指摘している。

 

 こうした事例から、ジャーネルは「間接的な教化を回避できる」「政治的寛容のモデルとなることができる」「市民的理解の援助」を個人的な見解表明が持つ教育的効果とした。

 わが国では、教師の見解表明を「影響力」や「政治的中立」という観点で議論されている。しかし、日本でも「教育的効果」という視点からとらえなおしていく必要があると主張している。

 

 

(思ったこと)

 とても重要な指摘だと思う。自分はあえて①の立場をとっている。それは、先に挙げた教師の「影響力」や、「政治的中立」じゃないと攻められる危険性があるからである。(まあ、公立なのでやむを得ないが)

 とはいえ、社会科の知識を得ることに喜びを見出さない生徒を相手に授業をするときは、①では授業が成立しづらい。だから、自分も歴史の授業でもちょいちょい入れたりする。(注意されたことあったな)

 授業を構成し、教材を構成する過程で、扱う題材にすでに主観や立場性は入り込む。そのことに自覚的になる必要があると思う。

 やはり自分は公民ではないので、そうした題材を見つけるアンテナに乏しい。だから自分が公民をやると、どうしても①か③になってしまう。(③も、「みんな違ってみんないい」となってしまうリスクがある)

 そういう意味で、日本の教育現場で、④の立場から授業をするにはどうしたらよいか、というのを自分も知りたいと思っている。この実践編がなされ、それを継続して学習した生徒が市民性を身につけることができるのか、が気になる。

 (お茶の水付属小がこの手では一番先進的なのかもしれないが・・・)