青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

歴史秘話ヒストリアの日本中世史のところを見まくっている

 ここ最近、歴史秘話ヒストリアを授業で見せるために、録りだめしていたヒストリアを見直している。

 見直しているのは、「承久の乱」「蒙古襲来」「足利義満」「観応の擾乱+嘉吉の徳政令応仁の乱」の回。あと、「観応の擾乱」と「応仁の乱」は単独でやっているものも後で見ようと思う。

 

 「承久の乱」については、結局鎌倉武士が上皇側につかなかったのは、院宣が出たところで、その後の土地(給料)を保障しているわけではなかったこと(結局、政子の側がそれを改めて保障したっていうこと)なんですよね。中学の授業とかでは、結構御家人との主従関係(上下関係)の部分が強調されがちですが、あれって、何だかんだで生活保障でしかありませんからね。そう考えると、鎌倉武士ってかなり現金、なんだなってことが分かります。

 

 「蒙古襲来」は、元軍に対して鎌倉武士たちが無力で、暴風雨が来てたまたま勝ったような感じで語られがちですが、今の山川の教科書って「再度にわたる襲来の失敗は・・・幕府の統制のもとに、おもに九州地方の武士がよく戦ったことが大きな理由であった」って、ちゃんと鎌倉武士たちの功績を評価する記述になっているんですよね。この辺りは、我々が教わっていた蒙古襲来とは異なる視点ですから、この辺りを絵巻を通じて考えさせた方がよいですよね。

 とはいえ、この戦いによって、これまでいち東国政権に過ぎなかった幕府権力が全国にまで拡大したにも関わらず、霜月騒動などによって、幕府の実権は北条得宗家が独占する状態になってしまっていますから、さっき言った主従関係でいえば、そんな主が、永仁の徳政令などによって、所領安堵をしてくれないくせに、軍役だ、屋敷の修理だ、って言われたら、そりゃあ、主従関係を解消したくなりますわね。

 

 

 ちなみに、青森県では、子守唄で「ねねば山からモッコくるど」という歌詞があります。(自分は、地元の祭り(新田火祭り)で、馬ねぶたに火を放つ際に、歌っており、これはwikipediaによると、まさに地元の子守唄らしいです)

 「モッコ」とは、「蒙古」のこと。つまり、「蒙古襲来」をさしています。蒙古襲来は九州で起きた戦いなのに、なぜ青森?と疑問に思っていました。

 これまでは、蒙古襲来とほぼ同時期に起きていた、「北からの蒙古襲来」(モンゴルの樺太侵攻)が関係しているのかなと思っていたのですが、ヒストリアでは違う説が出されていました。

 それは、文永の役で壊滅的な被害を受けた対馬の人が津軽へ移住し、そのまま「対馬」姓を名乗って住み着いた、という説です。確かに、青森県には「つしま」の苗字が多い。(正確には「對馬」が多い)その人たちが、子どもを寝かしつける時に、蒙古襲来の話をしたのではないか、という説です。

 この話、青森県にいる人なら、何となく合点がいく話なんですよね。


 だいぶ書くことに満足してきたので、今日はここまで。