青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

歴史総合を考える(夏期講座での取り組みを通して)

 昨年度から、職員室で社会科の先生がしている雑談(歴史に関すること)を生徒にも公開しよう、をテーマに夏期講座を開講している。

 昨年度は、自分が語り手となり、国語の先生(といっても、ディベートに熱心で社会情勢にも詳しい先生)が司会者となって行った。

 

 

 今年はそれを世界史にも開こうと、昨年度からいる同年代の世界史の先生も誘って、3人で行うことにした。

 というのも、これから始まる歴史総合は、世界史・日本史の枠にとらわれず、広く「歴史」を見ていく科目となる。そうはいっても、戦前以来の「西洋史」「東洋史」「日本史」と別れている現状から、教員の側も歴史に詳しい先生は、世界史あるいは日本史のどちらかの視点に偏って語りがちである。

 とりわけ自分は、世界史未履修事件のあおりを受けている人間なので、世界史のことはほとんど知らない。また、現在の学校では「日本史」を担当している関係上、日本史については細かく知っているのだが、世界史については門外漢である。

 

 

 一方で、世界史の有用性をつとに感じている昨今である。世界史はローカルにすればするほど、各国史は際限がないため、「広い視野」でとらえることになる。また、「タテ」と「ヨコ」の関係性をかなり重視する。そして、国際的な視野でとらえるため、物事を大局的に見やすい。

 

 

 一方の日本史は、せいぜい出てきても東アジアとの関連だけであり、高等学校になればなるほど事象は細かくなっていく。もちろん、「なぜ日本が戦争へと向かったのか」など、EQ(本質的な問い)を重視した問いを立てることも可能なのだが、どうしてもガラパゴス感が否めない。

 それに、日本史だけで物事をみていると、どうしても見方が狭小になってしまう。個人的には、ちょうどそれは陸軍(日本史)と海軍(世界史)の対立を見ているようである。そして、多くの生徒はどちらかといえば日本史を選ぶ。そうなってしまうと、日本史を教えることで、逆に日本型社会の形成を助長してしまうのではないか、という個人的な危機感がある。

 

 

 

 そんなこんなで今年は、世界史と日本史の先生が、それぞれの視点から事象を説明することで、歴史を多面的に見てみよう・・・そんな目的で講習を行った。

 さらにこのご時世なので、できるだけ家で見てもらおう、ということで、特別な事情のある生徒を除いて、teamsのストリーミング配信機能を利用したオンラインでの講習を行いました。

 

 

 主な内容として、

 初日は、COVID-19の問題があったので、「感染症の歴史」をテーマにしました。感染症の問題は、日本史というよりは世界のグローバル的な流れの中で、日本に入ってきたものが多いので、まずは日本の歴史を話したうえで、世界史の視点から話をしてもらいました。とはいえ、世界史の先生の側からは、世界史的にみれば「病気を治す」という考え方そのものが、20世紀に医療技術が発展してからのものであり、それ以前は、病気は治すという考え方ではない。治すというよりは、政策として公衆衛生を充実させ、病気を予防したり拡大を防ぐ方策がとられてきた、という考え方を知り、なるほどな、と感じました。

 そのため、日本史の側からも、長与専斎という、明治時代に公衆衛生という概念を定着させた人物を紹介しました。折しも、今年の東京外国語大学の問題が、「江戸から明治にかけて、感染症の考え方はどのように変化してきたのか。資料に基づいて100字以内で論述しなさい」という、キセキのような問題があるので、ぜひ見てみてほしいです。

 この他にも、「病は気から」ということで、宗教とのつながりで話もしました。

 生徒の質問で、「梅毒」に関する話題も取り上げられたので、そこから「女性」の問題、「ハンセン病」などの「差別」の問題についての話題も取り上げました。本当は、そこから従軍慰安婦の問題や、上智大学2016年TEAP入試で取り上げられているような、「娼婦=けがらわしい」という概念は、近代になって取り入れられた概念なんだ、という話までいきたかったですが、中学生も対象だったので取り上げませんでした。それでも世界史の視点からは「梅毒」による「社会的差別」の問題は取り上げていたので、ある程度は触れられたのかなと思っています。

 最終的には、女性の話になったので、「戦争は女の顔をしていない」のマンガも紹介して1日目が終わりました。

 

 

 

 

 

 2日目は、「1つの事象を日本史と世界史で見てみよう」をテーマにしました。具体的には、江戸時代の鎖国の頃の歴史(なぜ、江戸幕府はヨーロッパの中でオランダだけを貿易相手国に選んだのか)と室町時代の歴史(なぜ、足利義満金閣を建てたのか、金閣に込められた意図は何か=日明貿易について)と鎌倉時代の歴史(元寇の背景)の話をしました。

 世界史でも、この時代の歴史、例えば江戸時代の頃のオランダの様子、それまでのポルトガル、スペイン、イギリスとの覇権争いの中で、オランダが力をつけることができた理由、宗教改革の話題、室町時代でいえば鄭和について、鎌倉時代でいえば元のハン国の話題や、西アジアイスラームの話題などをしました。

 世界史の先生が強調していたことは、「中国という国は、みなさんが思っている以上に強大な国である」ということでしたね。それと、「イスラム世界というのが強い影響力を持っていた」ということも合わせて話していました。我々はつい「近代化」という概念から、欧米中心で物事をとらえがちであり、中国やイスラム世界の強大さ、を感じる機会が少ないように感じます。

 しかし、世界史的にはこうした国々が強い影響を持っている、そういうことを知るために、前近代の世界史を学ぶことは有益だなあ、ということを感じました。

 

 

 

 3日目は、生徒からの質問に答える形で進行しました。「自分たちの勉強法」「海外の世界史教育」「女性の歴史」「自由な時代とはいつか」「尊敬する人物」などを話しました。

 特に、海外の世界史教育の中で、特にオーストラリアの歴史教育の話題を取り上げていました。そこでは、ナチス・ドイツの話をしており、最終的には、「ナチス・ドイツが行った行為について、現在のドイツ人は責任を負うべきか」という、サンデルのような問いを提示していたそうです。そこでもやはり論拠、視点など、これから始まる歴史総合のような授業をしていたそうです。といっても、生徒は全然聞いてなくて、PCで遊んでいたようですが・・・。

 また、尊敬する人物の件で、世界史の先生が、ハンナ・アーレントを紹介していたのが印象的でしたね。

 

 

 そんなこんなで3日間を終えました。

 

 

 生徒の感想としては、やはり世界史にまで踏み込んでいくと、中学生には難しそうな印象でした。とはいえ、うちの生徒なので、何とか食らいついているというのが印象でした。また、高校生になると、かなり深く考察ができたようで、やはり世界史と日本史の多面的思考というのは、高校生ぐらいじゃないと厳しいのかな、でも、こうやって多面的な見方を深めていくことが、歴史の理解につながっていくのかな、ということを感じました。

 

 

 

 最後に生徒の感想を紹介して終わりにします。

 

 

歴史を学ぶ上で戦争は切っても切り離せないものであり、戦争と言うとどうしても男性主体、男性が戦地に戦いに行って女性は本国で兵器を作ったり家を守ったりするという固定概念が強かったのでソ連では女の人も戦いに行っていたという話を聞いて驚いたし、知れてよかったと思った。私が知らない偏見も歴史もきっとまだまだたくさんあるだろうからもっと学んでいきたいと思った。
 
 
 
 
初学者の歴史学習は暗記が中心の風潮があるが、歴史に対する「暗記科目」という印象を大きく変えてくれる講習だったと思う。それと同時に、歴史に関する考察はやはり知識があることが前提となるということも改めて感じた。社会科の授業でも「考える」という取り組みは取り入れられているが、本当に正直に言うと、あまり楽しく感じられなかった、むしろ先生のお話から新しい知識を得ている方が楽しいと感じていた(オーストラリアの学生も授業態度からして同意見なのかもしれない)。その原因は、考えることが面倒だと思っていたからではなく、単に広い視野と知識が足りていなかった故に楽しさに気づけなかったことに尽きるだろう。今回の講習では歴史のエキスパートともいえる先生方が雑談のように話すという形だったので、私のように知識不足で考察学習に魅力を感じない生徒も、暗記以外の歴史の楽しさに気づけたと思う。
 
 
 
 
歴史の観点から見ても、学んだことはたくさんあったのですが、一番強く感じたのは「対話の重要性、必要性」でした。当たり前の話ですが、人間には一人ひとり人生のドラマがあって、そこを土台に「今」が成り立っていると思うので(歴史もその積み重ねだし)、先生方が何を大事に考えているのか、生徒に何を学び取ってほしいのか、伝えることはとても大切だと感じました。オーストラリアで高校の授業を受けた時にも感じたのですが、日本以上に、圧倒的に、「対話」を大事にする。対話、会話の積み重ねで先生の話に興味を持つ子もいるし、対話することで新しい視点が生まれることもたくさんあるので、先生自身が「話したい」と望んで生徒に語りかけてくださる、今回の講義はとても意味深いと感じました。

 

 

 特に、「対話」という言葉が重要なのだな、ということを改めて感じました。歴史的事実はどうしても無味乾燥で、それがペーパーテストになるとより鮮明になります。

 しかし、歴史はそれを「どう切り取るか」というのが重要だと思います。それが、教科書や学習指導要領という「しがらみ」を一度抜きにして語ることが、実は、歴史に有意味性を持たせてくれる、そんな体験をさせられたのかな、と思います。