青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

M-1グランプリに思うこと

 

 

 今年のM-1グランプリをみた。M-1は毎年楽しみにしているから、M-1だけは生放送で見ようと決めている。

 今年は誰が優勝してもおかしくない大会の中で、マヂカルラブリーが優勝。本当におめでとうございます。

 facebookで見つけた深見太一先生という、小学校の先生が音声ブログで言っていたが、M-1(漫才)の構成って、本当に授業に似ていると思う。特にM-1の場合は、「4分」という制限時間がある。その制限時間の中で、大勢の人に見てもらい、審査員に審査してもらう。それは授業でいえば、教育委員会や研究団体から依頼された授業公開に似ていると言っていて、確かにな、と思った。

 授業を見に来る人には、これまでその先生がどのような授業をしてきたのか、その文脈を知ることは難しい。(もちろん、検討会で質問をしながら知ることはできるが、100%は無理である)M-1に出てくるファイナリスト10組にも、10組がこれまで積み上げてきた歴史やキャリア、漫才のスタイルがある。もちろんそれは、5081組すべてにあてはまるだろう。

 そんな中で、「M-1」というスタイルに合わせて、自らの漫才を変化させてながら、「4分」という制限時間の中にぶつける。同じネタでもお客さんがのってくるか来ないか、はまさにその日、その場所、その空気になってみないと分からない。自分たちの授業だって、「45分(50分)」という制限時間の中で、どれだけのパフォーマンスを見せられるかどうか、ということになる。同じ授業でも、クラスによって反応は異なる。研究授業や授業公開の授業は、まさに「M-1」のように、自分のスタイルを、子どもも含めて、お客さん(参観者)に見てもらう場である。

 そんな中、マヂカルラブリーの漫才は、果たして漫才なのか、という議論になっているようだ。自分はマヂカルラブリーのネタは好きだ。特に、算数のネタとか、交通事故を救うネタとか面白い。でも、その中で「漫才=しゃべくり」というイメージがある人にとっては、それが受け入れがたいものだと思う。

 深見太一先生も、「こんなの授業じゃない」とよく批評されるという。でも、それには見に来ている人の、「授業観」というものがある。高校の先生であれば、講義形式の授業が「授業」だと考え、「話し合いの授業なんかさせたら、教えるべき内容が教えられないじゃないか」と批判するだろうし、小学校の先生であれば、高校の授業をみたら、「こんなに子どもが黙っていて、教師が一方的に話したら、子どもが何を考えているかわからないじゃないか。もっと話し合いの時間を設けさせるべきだ」と批判するだろう。

 しかし、自分はこう思う。一定のルールであれば、いろんな漫才があってよいのではないか、と。授業も同じである。そして、授業でいえば、その「あるべき論」の可視化こそが重要だと。その意味では、「M-1」というみんなが見る、国民が笑いの審査員になれる、こんなイベントはない。授業公開も同じだ。むしろ自分は、そういう授業の方が見たいし、授業に興味を持たない人間の方に興味がいく。

 憧れの教師になって11年。現在の勤務校も長くなり、勤務校に合わせた授業ができるようになってきている。正直、「進学校」なので、「学びの意欲」は高い。問題演習もいっぱいやっているから、問題演習さえして、生徒に対して「問い」を投げかけながら授業する形式だから、予習もほぼほぼいらない。

 でも、果たしてこれでいいのか、は最近の自分の課題である。かといって去年行った話し合いを重視した授業にも賛否はある。知識を土台に考えたい人からしてみれば、もっと教えてほしい、となるし、講義形式が好きではない人からは、もっと話し合いをしてほしい、となる。これが高等学校の日本史の難しさでもある。

 ただ、大事なのは「生徒のニーズがどこにあるのか」を常に見定め、それに対して、自分の授業の幅を広げて、それを出し入れできるだけの教材研究、になると思う。それは、M-1のてっぺんを目指し、「誰よりも面白い4分間」を作り上げるために、ネタを作り続ける漫才師とよく似ている。

 そして、M-1にはそれに向かうまでの人生がみえる。youtubeかまいたちの二人が、マヂカルラブリーは、これまでの3年間も含めて評価をもらった、と言っていたが、まさにそのような形だと思う。これまで経験してきた評価や、ネタへ向けた苦心…。M-1という競技には、まさに人生が詰まっているのだと思う。だからこそ人は感動する。だからこそ人は熱くなる。だからこそ人は批評したくなる。

 いいものを見させてもらいました。改めてマヂカルラブリー優勝おめでとうございます。