青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

いろいろと更新していきます。

社会系教科教育学会で読んだ論考①

 歴史的エンパシーの実証的研究 (石井天真)

 歴史的エンパシーとは、過去を異文化ととらえ、異質な他者としての過去の人々の思考や感情を理解を目指す学習や資質能力のことである。この研究では、生徒があらかじめ持っている歴史事象に関する既有知識が歴史的エンパシーに与える影響と、こうした授業を生徒はどのように意味づけるのか、について実践記録を基に考察している。

 授業としては戦国時代を題材に、生徒が知っている人物(信長、秀吉、ザビエル)と、知らない人物(武田勝頼小早川秀秋)を取り上げ、現代の価値観や感覚からすれば一見不思議な行為の背景にある、歴史的文脈や社会状況に気づかせるような授業となっている。

 この授業後の記録から、生徒のエンパシーを働かせる際の視点として、素朴な想像、知識の活用、資料の活用、イメージのあてはめ、自己のあてはめ、自己反省、他者の意見の7つの要素が抽出された。特に、初期の段階では既有知識の有無によるイメージのあてはめが強く影響していることを指摘している。(具体的には、「戦いに勝った(負けた)」という事実から「リーダーシップがある(ない)」と判断するなど)

 しかし、こうしたイメージも、資料を提示して授業を進めていく中で、文脈性を意識した記述へと変化すること、そして、その際には授業で提示されている資料が大きな影響を与えていることを指摘している。

 そして、こうした授業を生徒はどう意味づけたのか。「なぜ、歴史を学ぶのか?」のアンケートに対し、定番としては「教訓」の項目が多い(このアンケートでも1番だった)のだが、この実践を受けた生徒は、「人間理解」という項目が多い(2番目に多い)ことが注目される。石井氏が意味付けとして指摘していることは以下の三点に要約される。

 1.「他者理解」が歴史を学ぶ理由としているのは、元からではなく、この授業を通して新たに意味づけられた項目であること(=授業外で獲得しにくいものであること)

 2.1番目に多かった「教訓」については、生徒が学習していないにも関わらず「戦争」というキーワードをあげていることから、授業外ですでに獲得されている意味づけの1つであること

 3.歴史を学ぶ「意味付け」は近現代の方に多く感じる一方、歴史の「面白さ」については、古代の方に多く感じていること。

 

 つまり、歴史的エンパシーを働かせるような授業場面において、生徒は既有知識の有無をふまえて自分なりに「イメージ」を働かせながら歴史事象を考えていること、資料を通してそれに揺さぶりをかける歴史学習を行うことで、生徒は「他者理解の機会」として歴史学習を意味づけることを明らかにしている。

 

 

(勝手に講評)

 この論考は、エンパシーの点に焦点を当てているが、行われている授業がかなり丁寧に行われていることを感じる。例えば、導入で紹介されている江戸時代の4人の為政者の行動を、当時の文脈や社会状況から考えさせるのは、なかなかに難しいだろうが、生徒のコメントから、きちんと文脈に合わせた記述が見られている。

 そうした丁寧な授業だからこそ、「他者理解の機会」として、生徒が歴史を意味づけたのではないか、と思う。

 また、歴史の意味付けとして「教訓」を取り上げるのは、何も歴史授業実践の有無によらないことを間接的に指摘していることも興味深い。自分が年度末などに生徒に取るアンケートでも、やはり同様の結果が出る。その時に、「これ、本当に歴史を深く考えているのかな・・・?」と思ったりもする。つまり、教訓としての歴史という要素は子どもなりに歴史の意味付けとして素朴に持っている感覚の1つであることが分かる。

 同時に、エンパシーを働かせる機会は、歴史授業を行う(社会科のかもしれないけど)意味づけの1つであることを感じた。「なるほど、だから歴史教育者がしきりにエンパシー、エンパシーと言っているのか」ということが分かった。

 一方で、歴史の「面白さ」については、古代史の方に多く感じるという結果もまた興味深い。意味付けや意義という観点で研究を進めると、どうしても前近代が捨象されてしまうのだが、そうなんだよね、歴史好きな人って、前近代の方が好きなんだよね、というある種の共感のようなものを感じた。

 また、自分の調査でも出てきたが、歴史が「好き」な人って、「学ぶ意味」を感じてやっていないんだよね。ある種の教養というか、趣味というか、そんな感じでやっている。でも、そういう人の方が、現行のペーパーテストでは歴史ができちゃったりする。つまり、歴史って知っている人(既有知識を持っている人)ほど有利な科目だったりするわけで。

 いずれにしても、なるほど、こうやって為政者や人物の「イメージ」から、エンパシーって可視化されるんだということが分かり、勉強になりました。ありがとうございました。

 

 

 

 

社会系教科教育学会で読んだ論考②

 星瑞希 歴史意識の向上を図る日本近現代史カリキュラム開発研究

 

 この論稿では、客観的に歴史認識を問う歴史教育から、自分自身や自分を取り巻く社会がどのように歴史によって形成されているのかを分析していく中で、自らの歴史と他者の歴史を比較し、その見方を批判的にとらえるという歴史教育への転換を目指し、カナダのSeixasらによって開発されたカリキュラムを参考にしながら、実際のカリキュラム開発を行ったものである。

 Seixasのカリキュラムでは、過去に何が起きたかを探究する概念と、現代に生きる我々が過去をいかに用いたり対象にしたりするかを探究する概念、過去と現代を比較し、類似点と相違点を明らかにする概念とに分けることができる。星他(2020)*1によれば、「過去探究概念」と「現在探究概念」を往還しながら単元を構成することで、「現在主義」を克服し、過去の文脈を精緻に読み解くこともできるようなカリキュラム構成となっている。

 このカリキュラム構成を応用し、星氏は、現行の学習指導要領の範囲の中で、カリキュラムを構成している。歴史論争問題ごとに単元を分節化し、単元ごとに最終課題を提示している。例えば、アイヌ問題の考察を通して「日本は単一民族国家か」というEQを提示し、「日本人」というアイデンティティがいかに構築されてきたかを考えさせるような単元展開としている。

 その後、実際に授業を受けた2人の生徒の学びを最終課題とインタビューをもとにまとめている。こうした授業を通して、ただ単線的で暗記をしていただけの歴史が多角的に考察できるようになったこと、学ぶ意味として「他者理解」の重要性について学んだこと、歴史の中で形成された考え方が今の自分の考え方につながっていること、などを感じており、歴史授業に意味を見出していなかった生徒が、意味を見出せるようになったことを指摘している。

 

 

 

(講評)

 昨年度星氏が発表したカナダのSeixasのカリキュラムを、日本の文脈にあてはめてカリキュラム化を目指した意欲作である。とはいえやはり、カナダの文脈と日本の学習指導要領という文脈の中で、かなり苦労してカリキュラムを作っているな、という印象である。それは、日本の歴史教科書や歴史授業が、論争問題をあまり取り上げていないこと、通史という制約の中で教えなければならないこと、などが要因として考えられると思う。

 自分自身は、歴史論争問題を取り上げることは、一種の「暴露型授業」に陥る可能性が高く、中途半端にやることは生徒に、逆に差別を助長するようなことにつながってしまうのではないか・・・。それゆえ、歴史論争問題を敢えて避けて授業をしている。もし取り扱うにしても、教師の側が口述する形で済ませたりすることの方が多い。

 そのため、歴史論争問題を取り扱った授業は、これまで行われてきた客観的な歴史認識をつらつら並べるだけの授業に退屈している生徒にとっては、有意味性を感じる授業となる。しかし、その一方で、単純に歴史が「好き」な人、知識や教養(あるいは受験目的)として歴史を学びたいと考えている人(「学ぶ意味」を深く考えずに歴史を学んでいる層、客観的な歴史認識を望んでいる層)にとって、この授業がどうであったのか、を知りたいところである。ここで挙げられている無意味→有意味になった生徒だけでなく、もともと歴史が「好き」な生徒がどう感じたのか、そこに有意味性を見出したのか、を単純に知りたいところである。

 

 

 とはいえ、「歴史を学ぶ意味」を意識した授業では、歴史論争問題をいかに取り扱うか、それをカリキュラムにどう位置づけるか、を考えることは必要不可欠である。そういう意味で、今回は明治から日清戦争まででとどまっていたが、やはり第二次世界大戦の辺りや、その後の現代史なども見据えてカリキュラムを構成していくことが、他の実践者にとっても、生徒にとっても有意味性を高めていくことにつながるのではないか、と考える。

 (とはいえ、ここから先の歴史は扱いづらいこともまた事実である。個人的には、全員がやる授業ではないところでやり取りする/現代の話題・関心から歴史を照射する形で考える、という方法で行うのが好ましいような感じがする)

 

 

(追記)

 この後、星先生から、様々にコメントいただきました。ありがとうございました。今回の実践が日清戦争まででとどまっているのは、コロナウイルスによる進度の問題とのこと。これ以降、何をテーマに取り上げて生徒に考えさせるかが楽しみです。

 

*1:現代社会における歴史論争問題に取り組むための授業構成」(『社会系教科教育学研究』第32号