青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

全歴研の分科会を視聴しました。

  7月28日(水)に、全歴研の第5分科会「教科の枠をこえて、どのように歴史を学ぶのか」に参加しました。

 歴史授業にアクティブ・ラーニング的な要素を取り入れた実践の先駆者である皆川雅樹氏が主催した分科会。全歴研も学習指導要領が改訂されることを受け、数年前からこうした分科会を設置するようになっていて、それだけでも十分革新的だなあ、と感じる昨今。今回の分科会では、高等学校の歴史に関わる先生方がとかく敬遠する、アクティブ・ラーニング的な要素を登壇者の先生方が「いつ」「どのように」取り入れた(取り入れている)のか、についての、ちょっとした「ライフヒストリー」的な分科会でした。

 個人的には、ゆるい感じで本当に聞いていて面白い分科会でした。その上で、自分が思うことをダラダラと述べていきたいと思います。(あくまでも素人意見ということでご容赦ください)

 

  まず、こうしたアクティブ・ラーニング的な要素を取り入れた授業者の多くが、初期の授業観として「講義型」で、「教科書にある知識」を「分かりやすく教え」たり、「教科書にある知識の文脈を、自分が学習してきた歴史学的な知見に基づいて補足」したりするような先生が多いな、という印象です。これは、高校歴史の先生の多くが、文学部史学科の出身であり、そうした教育法をあまり学ばずに来ていて、そもそもアクティブ・ラーニング的であったり、生徒の歴史観ボトムアップするような、授業観や授業方法を持ち合わせていなかった、ことに起因するのではないかと思います。

 

 

 でも、実際に教育現場で授業をしてみると、特にB科目のような知識を生徒に教えるということになれば、そこに「有意味性」を見いだすことができなければ、生徒は「とりあえず聞いてあげる」か、「寝たり、内職をしたりする(歴史の学びから逃避する)」場合が多い。それでも進学校は「大学受験」に「有意味性」を見いだすことができますが、そうでない生徒にとっては、自分たちの考えも表明できず、何だかよく分からない知識たちを、とにかく覚えろの一点張りで、教師が呪文のように唱えていく授業は、受け入れることは難しいのかな、と思います。

 そうすると、教師が次にとる手法は、「平賀源内が、土用の丑の日というキャッチコピーを生み出した」などの雑学の披露ということになります。しかしこれにも一定の限界があるかと思います。

 まして中学の頃は歴史が嫌いで、知識を覚えることに有意味性を見いだしていない生徒にとって、それを拡大再生産する授業は苦痛以外の何物でもないと思います。

 

 

 こうした現状にふまえ、今回の学習指導要領改訂において、なるべく用語を削減し、生徒に歴史を考えさせる授業への転換が叫ばれるようになりました。ちょうどそれに呼応する形で、アクティブ・ラーニングの手法が紹介され、それを各教科がいかにしたら応用することができるか、ということを模索するようになっていったと思います。

 

 

 

 こうした時代の文脈の中で、自分の授業を何とかしたい、生徒に意味のある歴史授業とは何か、そういうことを考えた先生たちが、この手法の研究会に参加し、自分が持っている知識を組み合わせて「問い」を構成し、生徒に歴史を考えさせる活動へと向かっていったと思います。

 実際この分科会では、特にアクティブ・ラーニングがさかんになった2014年以降に焦点を当て、自分がどのような形で、今日の授業形態を創り上げていったのか、というライフヒストリーが紹介されていたかと思います。

 ただ、この文脈は、社会科教育史的にいえば、安井俊夫氏や加藤公明氏が、1980年代に自らの授業を「変革」していくプロセスを表明している様子に重なります。40年以上前に歴史教育が行っている「変革」を、時代の要請にともなって改めて行っている、そんな風に感じました。

 一方で、安井氏や加藤氏が行っている「変革」と、2010年代に起きた「変革」は、ちょっと毛色が違うように思います。1980年代の「変革」はあくまでもゴールは、歴史的な知見を通じて、「歴史的に」考えさせることにありました。しかし、2010年代のそれは、「越境」という言葉が使われていましたが、歴史学的な知見を教えることに必ずしもこだわっていない様子が見て取れます。あくまでも「コンピテンシー」、調べ方や考え方を教える、そこに主眼がおかれているように感じます。2010年代の授業変革の議論が、どうしてもそこに収斂しているような感じがして、そこが個人的にはもったいないなあ、と感じているところです。

 

 

 とはいえ、登壇されている先生方の実践は、そこには収斂していないことは明らかです。もともと知識や学問のバックグラウンドがあるので、歴史を手段として、何とか生徒に未来志向の歴史を考えさせたい、そんな思いがシェアされていました。ただ、気を付けなれればいけないのが、これを受け止める一般の先生たちの受け止め方です。

 歴史の知見を無視して、「議論」やフィッシュボーン図などを「手法」としてとらえて授業をして、「話し合いのスキル」をあげることを目的としていないか、また、その逆で、こうした学習を取り入れることで、手っ取り早く教科書の知識を網羅的に教えようとしていないか、さらには、アクティブ・ラーニング型こそが「よい」授業だと絶対視し、講義型を「否定」しないかどうか、などです。

 

 

 ただし、こうした二項対立(講義か議論か、歴史学重視か軽視か)で、議論をすることがそもそも限界であるとも自分は考えています。そこで重要になってくるのが、学校の文脈(school based)です。この文脈にそって、「引き出しの幅」を持っておくことだと思います。

 例えば自分は、現在進学校で教えていますが、生徒の様子を見ながら、講義をする場面と、議論をさせる場面、映像を見せたりする場面を、うまくバランスとりながら学習させています。

 その際に重要となっているのが、生徒のリフレクション(振り返り)です。これをやるか、やらないかだけでも大きく変わってくると思います。自分はある種、研究のためにとっている部分もあるのですが、生徒のふり返りシートを見るだけで、「あ、今回は難しかったのか」とか、「あ、この生徒は歴史が好きなんだな」とか、「歴史を通して、こんな考えを持ったのか」ということを知ることができます。

 今回の分科会でも話題として出ていましたが、偏差値40だった生徒が、たった一回、振り返りシートを歴史の授業で褒められたことをきっかけに勉強して、共通テスト8割とれたという話がありました。特に振り返りを取っていて面白いのは生徒の自由意見で、ペーパーテストのよくない生徒ほど、実は鋭い指摘を持っています。社会科や歴史の授業では、むしろ「答え」から逸脱した生徒ほど面白いし、むしろそうした意見を授業に生かしたい、そう考えると、授業に参加する人数はどんどん増えていきます。

 

 で、そのリフレクションを見れば、生徒の「学びの履歴」や「学習文脈」が見えてきます。それを踏まえて、「教える場面」と「考えさせる場面」のバランスを取りながら授業をしていくこと、これが究極的には大事なのだと思います。

 これも、二項対立(教え込むのか/教え込まないのか)を超えるためには、重要な視点だと自分は考えています。だって、先生はその教科の「熟達者」なんですから、それを発揮しないのはもったいないじゃないですか。でも、生徒がどこでつまづいているのか、どんなことが好きなのか、ぐらいは聞いてあげよう、そんな感じでよいと思います。

 自分も歴史を教えて10年近くになりましたが、そうやって生徒に寄り添いながら、自分の専門を発揮できる教師が、重要なのだと思います。

 

 

 あとは、歴史を考える時は「問い」が大切なのですが、その辺りは『歴史教育「再」入門』に載っている、今回の登壇者でもある前川先生の「問い」が面白いので、その辺りを見てほしいです。今回はその話がなかったのが個人的にはもったいなかったな、と。質問すればよかったですね。

 

 

 というわけで、長々と書いてきましたが、最後に重要なのは「知識か手法か」ではなく、あくまでも教える「目標」を、学校文脈に合わせて定め、「知識も手法も」動員することが重要です。まさに「aim talk」の視点ですね。こうした視点をふまえながら、来年から始まる歴史総合も頑張っていきたいと思います。

 改めて勉強になりました。ありがとうございました。