青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

論文紹介

 階層間のエンパワーメントギャップの拡大に学校教育は何ができるか(一)

 -困難校で拒否される傾向にある主権者教育-

 (渡部竜也、「学藝社会」37号、2021)

 

(論文概要)

 民主主義教育が反知性主義ポピュリズムになってしまうという言説がなされるが、渡部氏は、その理由として以下の三点を指摘している。

 ① 民主主義教育を擁護する人々の中に、活動主義・態度主義的傾向の者が一定数いること(いわゆるサービス・ラーニング重視のシティズンシップ教育を民主主義教育として、実践している層がいること)=活動主義的

 ② 学習指導要領のいう「民主的で平和的な国家・社会の形成者」や「公民的資質」で想定されていることが、反知性主義的で体制順応的・共同体主義的な態度を育成することに主眼を置いていること =態度主義的

 ③ 歴史の授業における「現在主義」、すなわち過去の人間が現在の人間と同じ目線で世界を見ているという思い込みを子どもたちに植え付けてしまっている現状。こうした授業は、歴史学を専門にしている人たちから見ると、歴史学が重視する「文脈を踏まえた思考」を軽視した反知性的な性格のものに感じてしまう =現在主義的

 

 こうした批判について渡部氏は、「ねらいについての議論」をしっかりすればよいだけのことだと述べる。むしろ民主主義教育で本当に問題なのは、この手の教育が高度に知性的だということである。すなわち、態度主義・活動主義・現在主義に陥らない学習を重視した時に求められる知性はかなり高度なものであり、「学びがしんどい人々」に大きな負担をかけてしまう可能性があること、それによって、人々の間にエンパワーメントギャップ*1を生み出してしまい、格差是正どころか逆の結果を生み出してしまうことこそ、考えていかなければならない問題だと指摘する。

 

(評者注)つまり、民主主義教育を本気でやろうとすると、その高度さから知識や素養を持っている人にはヒットするが、そうでない人はついていけなくなってしまうこと。それによる格差が生まれてしまうことが問題だと指摘する。つまり、民主主義教育が反知性的だと考えられるのは、それが高度に知性的であるがゆえに受け入れられず、結果として反知性的になっているに過ぎない、という指摘である。

 

 

 

 こうしたエンパワーメントギャップを考える時に指摘されるのは、貧困層・低学歴層の若者の方が、政治委任意識が高いことに加え、将来への無力感の有無と相関が高いことにある。日本でいえば、若者が他の世代より自民党支持の割合が高く、それは貧困層・低学歴層ほど顕著であることと無関係ではない。若者たちは社会に対して不満は持っているが、それが政治的関心を高める方向に影響をもたらすことはなく、むしろ権威主義に走り、自民党を支持する傾向にあるという。つまり彼らは既成の政治政党への消極的な承認を示しているに過ぎないという。*2

 こうしたエンパワーメントギャップを是正するには、「公正志向の市民」の育成を目指す民主主義教育の実施が目指されるのだが、教育社会学の議論においてもこうした教育がかなり高次な知的要求を市民に強いることで、結果的に新たな格差を生み出してしまうことを危惧している。結果的にこうした教育はエリート層には受け入れられるが、いわゆる「学びがしんどい人たち」からは拒否されるのではないか。

 ただし、この論文で主張しているのは、「公正志向の市民」の育成を目指す民主主義教育が、子どもの側ではなく、子どもを教えている教師たちによって拒否された、という事例である。以降、渡部氏がこうした民主主義教育を実践しようとしたが、それを拒否された事例を通して、なぜ拒否されてしまったのか、それを述べている。

 事例の詳細については論文を読んでほしいが、端的にいえば、渡部氏が携わった学校の教師たちの多くが、子どもたちを格差から解放するためには、主権者教育ではなく、百ます計算のようなドリル学習の方が効果的であると判断した、ということにある。そして、こうした政策を熱心に支持する人は、実際に勉学によって貧しさから解放された人々であることを指摘する。また、教師文化特有の同僚との連帯を重視したという側面も指摘されている。

 

 その上で今後、主権者教育など「公正志向の市民」の育成を目指す民主主義教育を困難校で行っていくに当たって重要なことを2つ指摘する。

 ① 階層間のエンパワーメントギャップ解消において、少なくとも、貧困層に算数や国語の基礎学力向上を重点的に図っていく措置は、マクロでみるなら決して格差の是正にはならないどころか、逆効果であることを実証的データをもって論証していくこと

 ② 貧困層の子どもたちやマイノリティの子どもたちが共感できるロールモデルを示すこと

 

 ただし、日本では基礎学力をつけることで貧困から解放されたロールモデルはいっぱいいるが、民主主義教育を実施したことで解放されたロールモデルは提供されていない現状にあり、そこが難しいことが指摘されている。

 

 

(感想)

 エンパワーメントギャップの是正は、主権者教育を考える上で重要な問題である。とりわけこれだけ格差が拡大し、高度な思考が求められている社会においては、もはや百ます計算のようなドリル学習「だけ」に取り組むことは完全な時代遅れとなっている。一部の私立(特に中高一貫校)では、そうしたことに気づいている先生たちを引き抜き、すでにプロジェクト学習を中心としたカリキュラムが組まれ、生徒に高度な思考を要求している学校が多い。

 ただし、そうした学習にアクセスできるのは、私立にいくことのできる経済力や、中高一貫校を受けるための塾に入れることのできる経済力を持った人たちだけだろう。こうした世の中になってくると、学びへのアクセスの難しい生徒は、無力感にさいなまれるし、むしろそうした子どもたちを、ドリル学習でもさせて落ち着かせるのが関の山、となってしまう。これではますます格差が広がっていくばかりである。

 ただし、個人的な感覚でいえば、格差の是正を防ぐための「公正志向の市民」の育成を目指す民主主義を実施するには、日本の教育ではあまりにハードルが高い。特に日本の教育の場合、「批判する」という環境が十分に整備されていないので、主権者教育=国家・社会への抵抗者を作る、という論と結び付きやすく、それゆえ異端児扱いされたり、敬遠されたりしやすくなるだろう。(もちろん、「批判する」というのは、その人の「意見を批判する」のであり、その人の「人格を否定する」ことではない。しかし、これが分かっていない人が日本には非常に多い)

 また、こうした教育を実施するためには、学校全体での合意形成が必要不可欠であり、かつ教科の枠を超えた協働が求められるということである。渡部氏のプロジェクトが頓挫したのは、そうした合意形成がなされていなかったこと、さらに上のような主権者教育への印象もあり、イメージが共有できなかったことが大きいように感じる。

 また、「公正志向の市民」の育成を目指す民主主義を主導すべき社会科の教員の間にも抵抗勢力がいることもまた事実だろう。とりわけ、自分が歴史の先生だからこそ、歴史の教員が大きな抵抗勢力となるのは想像に難くない*3

 正直、今の職場で自分がこうした教育をやるかといえば、学校の文脈から答えは「No」である。また、セクショナリズムの強い高等学校の現場においては、みんなで連携をとって実践していくことはまだまだ難しいし、そこに風穴をあけるには長い年月と多くの労力、時間がかかるだろう。そうした要素を考えた時に、こうした教育を推進することは生産的ではない、と判断すると思う。

 

 

 とはいえ、これでよいのか、ということは常に考えている。渡部氏の指摘するように、この現状を放っておけば、エンパワーメントギャップはますます拡大していくことだろう。

 では、どうしたらよいか。社会科という教科は、生徒から意見を募ると、必ずしも成績の良い子だけが輝くのではない、ということである。むしろ教科書の記述に矛盾を感じていたり、勉強することに無力感を感じている生徒ほど、教科書的「ではない」意見を出し、それが「多様化」につながることにある。

 ひとまず現状では、その「多様化」を認めてあげること、それを受け入れてあげることが重要なのかな、と感じる。生徒の「しんどさ」を聞き取り、それをシェアすること、これが現段階でできる解の一つであり、そうした授業を目指していくこと、これが百ます計算に打ち勝つ方法かな、と思っている。

 

 

 

こと、また、社会科教育の枠をこえた協働が必要である、ということである。 

 

 

*1:階層間の政治的素養や政治意識、政治的思考の差異のこと

*2:詳細は、吉川徹、狭間諒多朗編『分断社会と若者の今』を参照

*3:それは、近年の「歴史総合」の議論を見ても感じることである。とりわけ歴史学教育は、文脈的思考を重視するとはいえ、結局は「歴史事実」というオチがあるので、そのオチを教えることになる。例えば、生徒の側から出てきた事象を拾い上げて、それを歴史的に考えてみようとする時、それは「公民教育」っぽくて、何だか「歴史教育」っぽくないと感じるのではないだろうか。現に自分が時々そう感じている。