青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

 やばい、リアルに風邪ひいた。寒気に振るえながらギャルサー見てた。「うざい」だの「死ね」だのと軽々しく口にするもんじゃないなあ、って思った。と同時に、「死ぬ」ってどういうことかの気持ちの希薄がひどくすすんでるなあって感じた。
 見て見ぬフリができるぐらい、女の子は渋谷に集まる、グループを組む。それで社会性を満たそうとする。でも、その社会は「空白の社会」、大人からは何も教わらず、教わるのは悪い世界の情報と言葉、そんな「空白の社会」を作り出している現状はどうなのだろうか。
 自分にも心当たりがないわけではない。僕はその「空白の社会」すら作ろうとしない、「空白の個人」を創造している。「空白の個人」の範疇で一人遊びをして満足してるだけである。こういう人も、心の充足を満たせていない。


 大人に責任転嫁するのも問題だ。かといって、子どもだけに問題があるわけではない。大人は自分が子ども、ないしは次代を担う若い人たち(後輩)に誇れるような人間かを自己分析し、子どもは「空白」を満たすための「大人」の意見を聞くことが重要だと高嶺の意見であるが、私は思う。


 そんなこんなでギャルサーは今のある意味「空洞化」した若者社会、ないしは渋谷の若者の現状を客観的に見、大人が社会を鑑み、自己省察するドラマではないだろうか。


 クロサギは法学、ギャルサー社会学か…。う〜ん、正直茶髪の女の子にはあんまり興味ないから、見るのはやめようと思ったけど、いろいろ学べそうだから見ようっと。