青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

歴史教育関係の本を買いあさり中です。

 ひとまず買った本を並べるだけしておきます。

 

 

 今月号は、歴史的な見方・考え方を働かせる授業について。冒頭の宇都宮先生が提示する「歴史像を描く」というのが自分のこれからの論考を考える上で、重要なキーワードになりそうだな、と感じた。(歴史像については、成田龍一先生も言及している)

 

 

 

 歴史総合→世界史探究・日本史探究を見据え、実際の授業の視点から歴史授業を見つめなおそうとしている本。自分は日本史なので、日本史の部分に注目すると、日本史固有の概念(例えば、荘園制や中世の自力救済)をいかに生徒に考えさせるか、という視点で描かれている。

 これからの探究を考える上では、重要だと思うし、日本史を教えている自分としてはとても参考になるのだが、生徒の「レリバンス」という観点や内容選択原理としてはどうなのかしら、と思ったりもする。

 あくまでも指導要領と、実際の授業を前提とした本だと思って読むと、かなり参考になると思います。

 

 

 歴史否定論、克服は可能かにひかれて購入。

 特に小田中直樹先生と、加藤圭木先生の論考はおすすめ。

 小田中先生の論考は、歴史学歴史学者)が昨今の否定論や修正主義といった考え方に対して、対話のチャネルを開いて積極的に議論していくことの重要性を指摘している。特に現在は「パブリック・ヒストリー」の視点が個人的には重要だと思っていて、そこに歴史教科書や歴史学の考え方がいかにアプローチできるか、については考えていかないといけないとは思っているので、この見取り図はすごく参考になった。

 また、加藤圭木先生の大学生が日韓のモヤモヤについて本にしたことで、それまで歴史や政治を語ることを忌避していた人たちともチャネルが開かれ、議論の「場」が作られたことを紹介している。こうした「場」が作られることが、これからの歴史にとっては重要で、その一端が示されている感じがした。

 

 

 

 昨年の全歴研の第5分科会が一冊の本に。いわゆる「アクティブ・ラーニング×歴史」ブームをけん引した方々による実践のふり返りを、それぞれのライフヒストリーの観点で紹介している本。

 ここでいずれも語られるのが、「分かりやすい授業」「教師が説明する授業」「チョーク&トークの授業」から、「生徒目線の授業」へのパラダイムシフトの過程である。これは個人的には、加藤公明先生のライフヒストリーの描き方と重なる部分が多いなと感じる。

 で、あるからこそ、これが「覚醒」したという「思想」につながらないことを願うばかりである。この本でも書かれていたが、アクティブ・ラーニングを「しなければならない」わけではないし、話し合い活動を「しなければならない」わけではない。

 ただ、教師が一方的に歴史を「伝える」授業には、一定の限界があり、その限界を超えるには、生徒に歴史を「自分事」にしてもらうことが重要だ、というのがそれぞれの先生方につらぬかれている。

 だからこそこの本では、「越境」というキーワードが使われているのだと思う。

 内容は呼んでもらえると、歴史の授業をやったことがある人なら共感することばかりだと思うので、ぜひ読んでほしい一冊。

 特に2010年代の「アクティブ・ラーニング」に歴史教育がいかに対峙してきたか、がとてもよく整理されています。

 

 

 くり返しになるけど、目の前の生徒の学習状況や学習文脈に合わせて、「引き出し」を増やしておくことが、これからの歴史教育にとっては大事で、そのためには、生徒が歴史に対してどう思っているのか、歴史をどう描こうとしているのか、を知ることが重要であり、そうして少しでも歴史を「自分事」にしてもらうことが、これからの歴史教育にとっては大事だと個人的には感じる。

 特に歴史が「好き」ならば、それを抑圧せず、どんどん伝えていく事は大事だと思うし、そこから始まる議論はあると思う。ただし、「それだけ」ではダメだ、ということもまた付け加えなければならない。だからこそ、試行錯誤が求められるわけで・・・。こういう営みをくり返しながら歴史教育を深めていくことが重要なのだと感じる。

 角田将士 NG分析から導く社会科授業の新公式

 

 社会科授業とはどのような授業か。かつて棚橋健治氏は、「社会科の授業診断-よい授業に潜む危うさ研究」という本を出し、一般的に「よい」とされる社会科授業の類型化を試みている。

 こうした社会科授業の類型化は、特に広島大学系の社会科教育学の先生が行う社会科教育法では至極当たり前のものであるが、こうした「社会科にはいろいろな授業方法があり、それぞれに意義と課題が存在する」という大学の教育法のテキストのような内容で、かつ現場の教員にも分かりやすく書かれているものは、近年なかなか出版されていなかった。

 しかしながら、高等学校も含めて、コンピテンシー重視の学習指導要領へ転換した現在、ある特定のやり方にだけ凝り固まって社会科の授業をしていることが、非常に危うくなってきており、生徒の学習文脈や学校の文脈に合わせ、カリキュラムレベルで実践をプロデュース(ゲートキーピング)できる能力が、社会科の教師には求められている。

 

 

 そうした中で出版されたのが今回の本。結論から言えば、少なくとも中学の先生、さらに言えば、歴史総合や地理総合など、高等学校の必修科目に関わる先生方にはぜひとも読んでほしい一冊である。

 この本は一言で言えば、社会科に見られるそれぞれの授業の特性を解明し、特にどんな点がNGであるか(課題であるか)を理解し、それを改善するにはどうしたらよいか、の処方箋が示されている。

 

 特に著者の場合は、絶対にやってはいけない授業として

  1.  価値注入的な授業
  2.  活動中心的な授業

 

 を挙げている。一般的に言われる「知識伝達」の授業は、絶対にやってはいけない授業に含まれていないことが興味深い。その上で授業構成の4タイプとして

 

  1.  知識伝達に重きを置いた授業 (内容重視型)
  2.  事象の意味や意義に迫る授業 (地理や歴史の○○とは何か、型の授業)
  3.  概念や理論の習得を目指す授業 (いわゆる概念探求型の授業)
  4.  価値判断を求める授業    (公民に見られる価値判断型の授業)

 

 を取り上げている。

 ここで踏まえなければならないのが、著者の考え方が森分孝治氏の論考に多く依っていることである。著書のp.5には森分氏が2001年に発表した社会科における学力像の図が示され、この学力像に基づいて授業分析がなされている。そのため、科学的でないと考えられる「思い」と「願い」の授業や、とにかく活動させることを重視する授業は、絶対にダメという判断となり、とにかく内容を詰め込む授業の方が、(課題はあるが)「まだマシ」という評価になっている。

 さらにいえば、4の価値判断を求める授業についても、論者によっては4の中で様々な類型や考え方があるはずだが、著者の場合は価値判断型の授業とひとくくりにして説明している。これも森分孝治氏の論考に依るものと考えられる。

 

 そのため、求められる授業のアップデートの方法についても「知識の累積的成長」と「知識の変革的成長」の比較(p.170-171)、「知識の変革的成長」の図(p.172)が示されている*1。個人的に今回の学習指導要領は、科学的な探求の視点について森分氏の考え方が多分に援用されているので、この本は、そうした考えをかみ砕いて紹介しているという点で、非常に有用性の高い本であると考える。

 

 

 また、今回とても興味深かったのが、最後の章で著者が「学ぶ意義」についてもはまりやすいNGポイントを指摘していることである。

 

こうした視点から、社会科授業のアップデートに向けて、ハマりやすいNGポイントとして、「過度の一般化による学習の陳腐化」が挙げられます。筆者が参観した歴史授業に、18世紀のイギリスとフランスを比較して、「なぜイギリスでは、フランス以上に重税が課されていたにも関わらず、国内に大きな対立が生じなかったのか」という問いを軸に、「税に対する同意の有無」を結論として導き出し、それを日本にあてはめて、「なぜ日本では税に対する抵抗感が強いか」という問いについて考える授業がありました。・・・その結果として、生徒たちが出した答えは、「税に対する意識が低い」といった常識的なものに留まっていました。・・・なぜ18世紀ヨーロッパを学ぶのかという問いに応えるために、歴史的背景の異なる国の「税に対する考え方」を過度に一般化した結果、学習が陳腐化してしまった事例だと言えます。(p.209)

 

 この「過度の一般化による学習の陳腐化」については、特に歴史教育において注意しなければならないことだと思います。個人的には、最後の日本の「問い」はオープンエンドにすべきだろうとは思いますが、無理やり意味づけることは、歴史の文脈を無視することにもつながりかねないのは、注意が必要だと思います。

 

 

 今回の指導要領では、自ら内容をうまく精選し、結びつけるカリキュラム・メーカーとしての教師の役割が強く求められています。そうした視点で考える時、今回のような社会科の多様な授業形態を理解し、それぞれの意義と課題を理解した上で、教材を作り、問いを構成し、生徒に学ばせていくことが重要であると考えます。その一助になる本だと感じました。

*1:詳細は、森分孝治『現代社会科授業理論』を参照。個人的には、今回の学習指導要領に基づく授業を考える上で、非常に示唆的な内容が多く含まれているので、ぜひ読んでほしい一冊である

高大連携歴史教育研究会第8回大会を視聴して

[think]

 7月31日(日)、高大連携歴史教育研究会の大会をオンラインで視聴しました。視聴したのは午前は「知識構成型ジグソー法では何ができて何ができないのか」、午後は「生徒はどのように歴史を自分ごととしているのか」について参加しました。

 

 以下、思ったことをつらつらと書いていきます。

 まずは、午前中です。

  • いわゆるジグソー型の学習は、多様な視点でとらえられる内容や問いの時には建設的な学びが深まりやすい反面、因果関係などの説明型の内容や問いになると、学びが深まりにくい側面を持つ傾向が強い。
  • ジグソー学習が誤解されやすかったりするのは、知識「を」教えることや因果関係「を」教えることを前提とする授業が歴史では多くなされるからで、それを無理やりジグソー型にあてはめると、結局単なる「まとめ」活動となってしまう。
  • これを打開するためには、問いを現在の社会的課題に引き付けることが重要である。武井先生の実践は、問いや内容が現在の社会的課題を踏まえたものになっているため、知識構成型ジグソー法が一定の効果を有するだろうと想定される。また、星先生の報告にあった「第一次世界大戦は女性を解放したのか」という問いも現在の「ジェンダー」の問題とつながっているため、現在と過去の対話が生まれ、それが議論を生み出していると考えられる。
  • 「歴史への真摯さ」や「連累」というキーワードは、歴史総合の実践が深まれば深まるほど、「レリバンス」や「エンパシー」以降の、歴史教育で考えなければならないトレンドワードになるだろうと感じた。そういう意味では、稲垣先生の報告はかなりの斬新性とインパクトを感じた。歴史教育としての一種の到達点となっていくことが想定される。
  • しかし一方で、史資料を提示することの暴力性という課題は大きいだろうと考える。自分は森分孝治氏の三角形の認識論や知識と価値の二元論を取る立場で、それが実際に授業する上では妥当だろうと考える人なので、「価値」についてオープンエンドでよいのではないか、と考えている。(教材の提示や、差別の問題、ジェンダーの問題などは取り上げるが、そこから生徒がどう感じたのか、については深入りしないという立場)
  • とりわけ歴史総合では、教材の精選し、それを生徒に示す場面が多くなるので、資料が自然と語ってしまう暴力性や立場性には、かなり留意する必要がある。一方で、映画「教育と愛国」で示されていたように、言葉尻をとらえて揚げ足をとられ、最悪職を追われかねないテーマでもある。そうした見えない部分に大きく配慮しなければならないだろうと感じる。
  • 自分だったら、稲垣先生の教材は、一部の「覚悟」のある人と、「同意」してくれる人にであれば考えさせてもよいが、「必修」で「全員」にやるのはやはり躊躇する。しかし、それを扱わないことによる課題もあるので、「う~ん、難しいなあ」と。

 

 午後について

  • 「レリバンス」のとらえ方が異なっていたので、それはそれでとても面白かった。
  • 福崎先生の報告は、どちらかといえば「学校外の価値」との接続に注目した実践と言える。また、勤務されている学校の文脈というのも大きい。こうした学校の文脈や学校外との接続ができる環境であれば、歴史は意味あるものになるだろう。これは、この後の分科会で報告してくれた同志社大学の井上さんもまさにそれに該当する。(彼女の場合は、本人の文脈(家に戦時中の史料があったこと)と学校外の接続(神戸大学などの協力)、学校の文脈(歴史総合の先行実践、総合的な探究の先駆的実施)が重なり合って深まっていった事例といえる)
  • ただし、こうした「ホームラン」が打てればよいのだが、必ずしもそうならない場合もあるし、むしろそうならない場合の方が大きい。
  • そうなってくると、大房先生、山田先生、渡邉先生の報告のように、普段の授業をいかに意味あるものにするのか、という研究も重要となってくる。
  • 興味深かったのは、「レリバンス」の研究をすると、生徒の成果物やアンケート、インタビューなど、学習者目線の報告が多くなる。特に大房先生や山田先生の報告は、生徒の「語り」が多く引き出されていて、とても興味深かった。
  • こうした「語り」を引っ張り出してみると、「レリバンス」と言った時に、暗記からの脱却、現在との比較、知識のつながり、現在とのつながり、といったキーワードが多くなる。(これは、自分がアンケートをとってもそれを感じる)
  • そして、その中の1割(数名かもしれない)が、そこから現在の自分の生活を見つめなおしたり、さらに深く調べたりしようとしてくれる。午前中のワーチのいう、「習得」と「専有」の概念を援用すれば、「専有」(自分の文脈に落とし込んでとらえる)することができている。
  • ただし、この場合も、「習得」はするかもしれないが、「専有」に対する抵抗を見せる場合が多い。特に高等学校の場合、「受験」や「暗記」といったイメージを生徒は強固に抱いている。それが「レリバンス」や「自分事」として歴史をとらえることを阻んでいる場合が多いだろうと考える。
  • 「レリバンス」という概念そのものが、社会文化的、文脈的にとらえるべき概念であるので、「みんなが獲得する」とか、「こうやったらうまくいきます」みたいなものではない。
  • しかし、だからといってこれを無視した歴史授業は結局のところ、「今まで通り」の価値観を維持するだけになってしまい、結果的に指導要領が求める考え方を無視することにつながりかねない。
  • それゆえできることは、現代社会の課題に踏み入ったり、学ぶ意味を意識しながら授業を行い、生徒の回答を拾いながらそこを揺さぶり続け、たま~に誰かが「ホームラン」を打ってくれたり、「歴史って確かに大事だ」という「ヒット」を積み重ねていくことが重要なのだと思う。
  • 同時に、歴史学習がうまくいかない生徒にインタビューすることの方が、「レリバンス」にとっては重要であると思う。進学校の知識詰込み型の授業はイヤで授業を無視していた生徒に「レリバンス」をテーマにインタビューすると、実はその生徒の方がよっぽど実用主義的に歴史を考えている、という事例もある。
  • いずれにしても、「レリバンス」をテーマにすることは、目の前の生徒をしっかり見つめることにつながる。歴史総合やこれからの歴史授業は、そうした視点が重要であると個人的に考える。

 

 以上、自分のメモ用につらつらと書きましたが、とても勉強になる会でした。これからの歴史教育の動向と、来年の研究会がとても楽しみだなあ、と感じています。

 とても楽しかったです。発表者のみなさん、企画してくださったみなさん、本当にありがとうございまいした。

 

高校で歴史総合が始まるにあたって

 いよいよ今年度より高等学校では、学習指導要領が変更され、高校1年生から歴史総合が開始されます。

 やはり学習指導要領が改訂されるインパクトはすごく、Twitterや研究会をはじめ、多くの情報発信をしている歴史教師たちは、社会科教育や教育学の知見を踏まえながら、生徒にいかにして歴史授業を意味あるものにすべきか、研鑽を重ねています。

 しかし一方で、歴史学を専攻している大学の先生は、こうした運動に対して懐疑的であったり、批判的であったりするように感じます。それは、これまでの歴史教育を行ってきた人ほど、そのインパクトに対応することを拒んでいるようにも感じます。

 そんな中で注目されるのが、こうした歴史教師たちが学習指導要領変遷にあたり、自らの実践をどのように変化させてきたのか、のいわゆるライフヒストリーの側面です。

 ここで一つの事例となるのが、昨年行われる全歴研の研究大会で行われた議論です。ちょうど全歴研研究紀要第58集が届きましたので、そこからいくつか事例を踏まえて紹介していきます。

 そして、このライフヒストリーの側面を見ていて、特に気になることが、多くの歴史教師たちが、一度「チョーク&トーク」(講義式)で授業実践を行い、そこに疑問を感じてから、自らの実践を変化させているということです。

 例えば、中村洋樹先生は、近畿地方の私立高校に勤める世界史教師のライフヒストリーを紐解きながら、教師の力量形成に研究会がどのような役割を果たしているのかについて分析してきます。

 そこでも、1年目から5年目までは、いわゆる「チョーク&トーク」の一斉講義と小テストを繰り返すスタイルでの授業が行われていたこと、そして、6年目以降に受験と関係のない学校へ異動した時に、その授業ではうまくいかないという挫折を経験。それ以降、例えば佐藤学氏の「学びの共同体」論に着想を得た協同学習を試みに始め、研究会での出会いや授業見学、自らの実践の発表などを通して、そうした学習をブラッシュアップしていく過程が示されている。その過程では、例えばジグソー学習やフリップボードの活用、講義パートとアクティブラーニングパートのバランスの保たせ方など、色々な試行錯誤の過程が示されている。

 また、第5分科会の報告では、産業能率大学の皆川雅樹先生が、自らのライフヒストリーを公表している。そこでも、2009年までは「チョーク&トーク」の授業を行い、「板書が分かりやすい」など、生徒の評価も上々であったことが示されている。しかし一方で、そこに「違和感」を持つようになり、そこから小林昭文氏の活動型の授業から学び、少しずつグループワークを入れていく活動へ変化していく様子がつづられている。その過程で、KP法で学習内容を説明するなど、少しずつ歴史授業がブラッシュアップされていく過程が示されている。

 

 

 ここで注目されるべきことは、歴史教師がまず、「チョーク&トーク」(講義式)を経て、そこで試行錯誤をした結果、協同学習、ジグソー学習、KP法、グループワークなどの方向性を導き出しているというプロセスである。

 ここで考えなければならないことは、

 ① 歴史教師たちの基礎学力としての「チョーク&トーク」(講義式)

 ② 過度な方法主義への危惧

 

 である。

 一点目については、現在の指導要領に基づいた授業をしている歴史教師の多くが、やはり講義型の歴史(歴史事象)とその背景(因果関係)に関する造詣が深いということである。この2例以外にも、いわゆる「歴史×アクティブラーニング」や「歴史総合の目標実現」を目指している多くの歴史教師が、「講義」をベースに自らのライフヒストリーを形成している傾向がある。

 二点目は、こうした方法学習は目標なきままに生徒に提示されると、生徒は、話し合いのスキルは向上するが、その内容は不問に付され、コンテンツフリーになってしまう危険性である。これが、歴史に関する基礎がないままに行われた時に、「歴史総合」が実現できるのか、というのは考えていかなくてはならないだろう。

 

 

 ただし、自分はこうした「内容」と「方法」、「科学性」と「主体性」の二分論を克服するには、やはり「目標」をしっかりと設定する必要があること、そして、歴史に対する生徒のニーズをしっかり把握することが重要であると考える。

 

 

 例えば、西村豊氏は、高校生へのアンケートを通して、どの学習文脈においても,生「歴史を学ぶ目的」に関して,「知識や教養を身につけるため」「現在をより深く理解するため」「過去から教訓を学び未来にいかすため」の3つを重視しており、「歴史学の研究手法を学ぶ」ことを重視していないことを指摘する。また、全歴研の紀要でも、第5分科会の討論過程で梨子田喬氏が「ただ、一つ言えるのは、歴史学的な実証的な問いをそのまま生徒に落とすと、生徒はアレルギー反応を起こしますね」と述べている。

 

 

 こうした学習指導要領の変更に加え、歴史教師たちのこうした感覚から、社会科教育学的手法が一定程度受け入れられたのだろうな、と感じている。特に、渡部竜也氏の「Doing History」が与えたインパクトは、大きかったのだろうと感じている。

 

 

 ただ、こうした社会科教育や教育学の知見が入り込んできた時に、一定程度の歴史学の先生がこうした取り組みから離れている(むしろ、探究へ入り込んでいる)ことが、気になっている。また、指導要領の趣旨を考えても、探究科目は、こうした学問の受け皿ではないことは自明のことであると思う。そこは、歴史教師が目の前の生徒の学習文脈を把握しながら、様々なアプローチを通じて、歴史授業を「意味ある」ものにしていく必要があると感じる。

 

 

 来週から始まる歴史総合、自分も試行錯誤をしながら頑張っていきたいと思う。

購入した本

 歴史総合の勉強のために以下の本を買いました。

 

 

 

 これからの学習指導要領を考える上では、学習者の視点、レリバンスが重要になります。海外の事例を踏まえつつ、どうするべきかを考える上では大事な一冊です。

 

 

 新書ではあるが、歴史を教材化する上で重要な視点が、実際のインタビューなどを踏まえ、平易に語られています。とはいえ、内容はごりごりの歴史学なので少し難しいかもしれません。

今月読んだ本

 

 執筆者から献本いただきました。「排除」と「包摂」をテーマにした小学校から高校までの授業実践と、理論編が載せられています。特に夜間定時制が置かれている状況、という論考は面白かったです。今、定時制は「学び直し」よりも、「そこにしか行く事の出来ない生徒の受け皿」になってますからね。その中で、「学ぶ」とはどういうことかを考えていく必要があると思います。

 

 

 

 新聞に掲載されたのをきっかけに購入。副島隆彦氏の解説文を読んでから読むと、今の世界情勢も十分に説明できる小室氏の論考のすごさがよく分かる。「国連の真の姿は列強による軍事同盟」、こうした見方を知るだけでも社会の見方が変わっていくのではないか、と思います。

 その他、宗教や世界史上の国際法についても語っていますので、歴史総合にもおすすめかと思います。

 

 これも新聞で見て購入。いわゆるアスペルガーの診断を受けている子どもが、どのようなステップを踏んで社会に適応していくか、そのスキルが事例とともにたくさん載せられています。

 特に先生方に読んでほしい本です。

社会系教科教育学会

 今年の社会系教科教育学会が始まっています。僭越ながら自分も2年ぶりに学会発表に発表資料を掲示しております。歴史教育における「概念」をテーマにした論考+実践です。もしよければ見てもらえたらと思います。

 

 土曜日にはシンポジウムが開かれました。高等学校の科目再編を踏まえて、小中高大の先生方が、科目の一貫性について発表をされていました。

 社会系教科教育学会らしく、テーマとしては「探究」で貫かれていて、内容としてはかなり興味深いものとなっていました。一方で、科目の一貫性を考えた時に、「探究」だけでとらえてよいのか、ということはやはり疑問に感じました。

 例えば、小学校では問題解決学習がまだまだ主流だと思います。そんな中で、「科学的探求学習」がどこまで受け入れられるのかは、不透明だし、高等学校の実践は、C3フレームワークIDMを使っていましたが、別にIDMの枠組みにはめなくてもいいんじゃない、と感じたりもしました。そして、高等学校の科目再編を考えた時に板挟みになるのが中学校。しかし中学校は中学校で、「社会は複雑であることを知り、分からないという状態をわかる」、これは面白かったですねえ。ただ、小学校や高等学校とは一線を画していたかな、と。

 今回のシンポジウムでは、「探究」がテーマとなったことで、梅津先生や山田先生が、アメリカの新社会科期に関する言及をされていました。自分もつまるところ、今回の学習指導要領をきちんとやるのであれば、アメリカの新社会科期に大きなヒントがあると考えており、その再評価の意味も込めて、今回の発表資料を作成しています。そういう意味で、梅津先生や山田先生の指摘は、まさしく渡りに船というか、そう、そうなんだよ、結局そこに行きつくよね、と感じました。

 ただし、今の社会科はもっともっと多様です。今回のシンポジウムでは、論争問題学習の視点はなかったですし、生徒の学習文脈やレリバンスといった視点もありませんでした。ここがないと、これからの社会科を論じていくのは、片手落ちというか、その視点だけでいいの?ガラパゴスにならない?という感じを抱いてしまいました。

 今回はフロアからの質問をあまり受けていないかったので、その部分が深まっていませんでしたが、もっと多様な部分があってもよかったのかな、と感じました。

 

 

 いずれにしても、発表されている資料はバラエティに富んでいますので、これからじっくり読んでいこうと思っています。