青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

高大連携歴史教育研究会第8回大会を視聴して

[think]

 7月31日(日)、高大連携歴史教育研究会の大会をオンラインで視聴しました。視聴したのは午前は「知識構成型ジグソー法では何ができて何ができないのか」、午後は「生徒はどのように歴史を自分ごととしているのか」について参加しました。

 

 以下、思ったことをつらつらと書いていきます。

 まずは、午前中です。

  • いわゆるジグソー型の学習は、多様な視点でとらえられる内容や問いの時には建設的な学びが深まりやすい反面、因果関係などの説明型の内容や問いになると、学びが深まりにくい側面を持つ傾向が強い。
  • ジグソー学習が誤解されやすかったりするのは、知識「を」教えることや因果関係「を」教えることを前提とする授業が歴史では多くなされるからで、それを無理やりジグソー型にあてはめると、結局単なる「まとめ」活動となってしまう。
  • これを打開するためには、問いを現在の社会的課題に引き付けることが重要である。武井先生の実践は、問いや内容が現在の社会的課題を踏まえたものになっているため、知識構成型ジグソー法が一定の効果を有するだろうと想定される。また、星先生の報告にあった「第一次世界大戦は女性を解放したのか」という問いも現在の「ジェンダー」の問題とつながっているため、現在と過去の対話が生まれ、それが議論を生み出していると考えられる。
  • 「歴史への真摯さ」や「連累」というキーワードは、歴史総合の実践が深まれば深まるほど、「レリバンス」や「エンパシー」以降の、歴史教育で考えなければならないトレンドワードになるだろうと感じた。そういう意味では、稲垣先生の報告はかなりの斬新性とインパクトを感じた。歴史教育としての一種の到達点となっていくことが想定される。
  • しかし一方で、史資料を提示することの暴力性という課題は大きいだろうと考える。自分は森分孝治氏の三角形の認識論や知識と価値の二元論を取る立場で、それが実際に授業する上では妥当だろうと考える人なので、「価値」についてオープンエンドでよいのではないか、と考えている。(教材の提示や、差別の問題、ジェンダーの問題などは取り上げるが、そこから生徒がどう感じたのか、については深入りしないという立場)
  • とりわけ歴史総合では、教材の精選し、それを生徒に示す場面が多くなるので、資料が自然と語ってしまう暴力性や立場性には、かなり留意する必要がある。一方で、映画「教育と愛国」で示されていたように、言葉尻をとらえて揚げ足をとられ、最悪職を追われかねないテーマでもある。そうした見えない部分に大きく配慮しなければならないだろうと感じる。
  • 自分だったら、稲垣先生の教材は、一部の「覚悟」のある人と、「同意」してくれる人にであれば考えさせてもよいが、「必修」で「全員」にやるのはやはり躊躇する。しかし、それを扱わないことによる課題もあるので、「う~ん、難しいなあ」と。

 

 午後について

  • 「レリバンス」のとらえ方が異なっていたので、それはそれでとても面白かった。
  • 福崎先生の報告は、どちらかといえば「学校外の価値」との接続に注目した実践と言える。また、勤務されている学校の文脈というのも大きい。こうした学校の文脈や学校外との接続ができる環境であれば、歴史は意味あるものになるだろう。これは、この後の分科会で報告してくれた同志社大学の井上さんもまさにそれに該当する。(彼女の場合は、本人の文脈(家に戦時中の史料があったこと)と学校外の接続(神戸大学などの協力)、学校の文脈(歴史総合の先行実践、総合的な探究の先駆的実施)が重なり合って深まっていった事例といえる)
  • ただし、こうした「ホームラン」が打てればよいのだが、必ずしもそうならない場合もあるし、むしろそうならない場合の方が大きい。
  • そうなってくると、大房先生、山田先生、渡邉先生の報告のように、普段の授業をいかに意味あるものにするのか、という研究も重要となってくる。
  • 興味深かったのは、「レリバンス」の研究をすると、生徒の成果物やアンケート、インタビューなど、学習者目線の報告が多くなる。特に大房先生や山田先生の報告は、生徒の「語り」が多く引き出されていて、とても興味深かった。
  • こうした「語り」を引っ張り出してみると、「レリバンス」と言った時に、暗記からの脱却、現在との比較、知識のつながり、現在とのつながり、といったキーワードが多くなる。(これは、自分がアンケートをとってもそれを感じる)
  • そして、その中の1割(数名かもしれない)が、そこから現在の自分の生活を見つめなおしたり、さらに深く調べたりしようとしてくれる。午前中のワーチのいう、「習得」と「専有」の概念を援用すれば、「専有」(自分の文脈に落とし込んでとらえる)することができている。
  • ただし、この場合も、「習得」はするかもしれないが、「専有」に対する抵抗を見せる場合が多い。特に高等学校の場合、「受験」や「暗記」といったイメージを生徒は強固に抱いている。それが「レリバンス」や「自分事」として歴史をとらえることを阻んでいる場合が多いだろうと考える。
  • 「レリバンス」という概念そのものが、社会文化的、文脈的にとらえるべき概念であるので、「みんなが獲得する」とか、「こうやったらうまくいきます」みたいなものではない。
  • しかし、だからといってこれを無視した歴史授業は結局のところ、「今まで通り」の価値観を維持するだけになってしまい、結果的に指導要領が求める考え方を無視することにつながりかねない。
  • それゆえできることは、現代社会の課題に踏み入ったり、学ぶ意味を意識しながら授業を行い、生徒の回答を拾いながらそこを揺さぶり続け、たま~に誰かが「ホームラン」を打ってくれたり、「歴史って確かに大事だ」という「ヒット」を積み重ねていくことが重要なのだと思う。
  • 同時に、歴史学習がうまくいかない生徒にインタビューすることの方が、「レリバンス」にとっては重要であると思う。進学校の知識詰込み型の授業はイヤで授業を無視していた生徒に「レリバンス」をテーマにインタビューすると、実はその生徒の方がよっぽど実用主義的に歴史を考えている、という事例もある。
  • いずれにしても、「レリバンス」をテーマにすることは、目の前の生徒をしっかり見つめることにつながる。歴史総合やこれからの歴史授業は、そうした視点が重要であると個人的に考える。

 

 以上、自分のメモ用につらつらと書きましたが、とても勉強になる会でした。これからの歴史教育の動向と、来年の研究会がとても楽しみだなあ、と感じています。

 とても楽しかったです。発表者のみなさん、企画してくださったみなさん、本当にありがとうございまいした。