青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

 社会科なのに社会性がないことに問題意識を感じている昨今。まあ、反社会性を帯びている社会性という解釈をすれば、それもれっきとした社会性を帯びていると解釈ができますよね。
 そもそも社会性って何?っていうところに問題が起因していくと思うんだけど、ここで僕が社会性で定義づけているのは「社会に出ようとしない資質」ということなんだけど、じゃあ、社会性と社会科って関係があるの?っていう問題にも話が飛んでいくんだけど、社会科ってものすごく範囲が広いんだよね。だから、単に生徒に教えるっていう観点だけだと、それこそ今叫ばれている「社会科=暗記科目」の域を脱しうることは不可能だと思うわけで。やっぱりそこには他者との関わりにおいて得ることの出来る多くの知見(経験)っていうのが大きく授業に反映されていくわけです。
 そう考えると社会性と社会科っていうのは切っても切り離せない関係にあるんだと思う。自分の体験してないことっていうのを無理矢理授業に反映しようって言ったって、それはかなり無理のある話だと思うわけですよ。例え本を読んだとしても、それが自分に染みこんでいかないと、聞き流しで何も得ることはできないわけですよ。で、そのためにはやっぱり動機付けっていうのが大きく必要になってくるわけです。簡単に言うと、「好きになれ」って話です。


 これはよく言われる例だけど、「好きな人が出来たら、あなたは是が非でも好きな人のことを知ろうって思うよね、それは勉強もまた然りなんだよ」、そう、これです。この「好きな人が出来る」、これが動機付けであり、「知ろうと思う」、これが意欲や態度なわけですよ。先生が生徒に教える上で一番大事なことは、生徒に動機付けを与え、そこから生徒の意欲や態度を引き出すことです。そのためには、先生も教えることを好きにならなくてはならないわけですよ。よく歌や演劇の世界では「魂がこもってない!!」ってよく叱責されているあれです。つまり、授業に対しても「魂」がこもってないと、生徒もシンパシーを感じてはくれないわけですよね。


 スピリチュアルといえば、最近よく訳の分からない人がなんちゃらの泉っていうのをやってますが、僕はテレ朝があれを深夜枠でやる理由がよく分からない。ゴールデンとかならまだしも、あの枠って普通は笑う枠なんじゃないの?ってふと疑問に思ったりする。スピリチュアルと霊ってどう違うのかなあ。幽霊と妖怪ぐらい曖昧な感じがするんだけど。プラスかマイナスかみたいな感じですかね。


 霊とかの話になったからもう少し補足。やっぱり文献とかで証明しようにも、歴史に限らず、無理難題っていうのは学問のどこの世界にもある。フェルマーの最終定理とか、数学にも絶対解けないものがあるように、社会科にも絶対に解けない問題がある。というか、文系の科目は解けない問題ばかりである。社会科は、現実をいかに見るか、過去を現実とつきつめて、「どのような要因で起こってしまったのか?」とか、そういう問題がどの分野にも死ぬほどある。学校社会の勉強のことを学問と言わないのは、そこに何らかの答えが存在し、それが正誤という観点で評価されてしまうことにある。もちろん、いろんな学問の論争を見ても、半ば喧嘩の如く自分と相手の意見の正誤をつけている。


 うわ、話がそれた。で、そういう訳の分からない問題の時には、信仰とか、思想とか、そういうのがそれを浄化してくれる。例えば、「日本人って何?」っていう問題。これも人種的特徴とか、法的な国籍という観点とか、いろんな面で答えが出るかもしれないけど、必ずその論には傷がある。じゃあ、傷がない論理っていうと、やっぱり個の信仰の問題になってくるわけよ。信仰こそ論の絶対条件とは言い切れないけど(というか絶対違うんだけど)、やみくもに実証的なものばかり追いかけるのにも若干の限界があるんだよね。産業革命以降の化学絶対主義や、歴史学マルクス主義的な唯物史観とかも、そこに人々の考えや動きが織り交ざることで、戦後崩壊の過程を歩むわけだし。


 まあ、今日は何が言いたいかっていうと、もっと社会に出ろってことかな。