青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

敢えて世界史必修化を肯定してみる試み

 まあ、今まで(というか今でも)世界史必修に関して大いなる疑問を投げかけ、その都度、世界史必修を否定してはきましたが、ここで敢えて僕が考える世界史必修化の理由を考えてみる試みをしようかと思います。

 まあ、基本的には国際化がどうだこうだっていうのが文科省の表向きの理由のようですが、僕は少なくとも世界史を習ったからって国際人になれるか、って言ったらそんなの絶対とは言わないけど、ほぼ無理だって思う。そもそも「国際」っていう言葉自体も非常に曖昧だしね。僕が思う真の国際人は、やっぱり世界に出て、あるいは世界に出なくても在日している外国人の方と、コミュニケーションが取れる人が国際人だと思う。それは全く現地の言葉が分からなくとも、何とかコミュニケーションができれば、それは立派な国際人だと思う。それが現行の世界史の学習内容でつくか、と言われたらそれは無理なんじゃないって思う。


 で、ここからある側面から肯定に入るわけだけど、僕はそもそも歴史の時代区分概念は西洋のマルクス主義歴史観の影響を受けているっていう点から、世界史をやる意味を肯定したいと思う。


 何だ?マルクス主義っていう人もいると思いますが、正直僕もちゃんとは説明できません。でも、僕が理解する範囲では簡単に言うと、古代は奴隷制で中世は封建制で近代は資本制で、古代→中世→近代と時代が進むにつれて、主に生産力(日本でいうと農作物の量や機械製品か?)が発展している、つまり、時代が進むにつれて生活も進歩しているっていう立場の考え方です。


 もちろん、この考え方は今はトレンドではありません。でも、古代とか中世とか、って歴史を習った人なら平気で使うことでしょう。でさ、西洋の歴史で古代奴隷制→中世封建制→近代資本制、なんて図式立てられたらさ、じゃあ、日本ではどうなんだろう、って調べてみたいくならない?それを、戦前の歴史家たちはこぞって研究したわけ。


 ここから僕が何を言いたいか、飛躍するかもしれないけど、簡単に言うと歴史学習に厚みが出るっていうことを言いたいわけ。もちろん、マルクス主義の考え方は正直専門にしていてもよく分からないよ。でも、世界と日本を比較することは可能だと思うわけ。最近、近代史の新書を少しだけ読んだけど、近代って欧米の考え方を日本がどう捉えたか、っていうのがすごく重要になってくるわけ。で、それが最終的に戦争へと向かっていかざるを得なくなったわけだし。


 よく社会科は多面的・多角的にものを見るっていうけど、そんなの教師の力量がなかったら、よく社会科教育学の学問的な批判にあるような「広く・浅く」で終始しちゃうわけよ。でも、多面的・多角的に見る事は重要なんでしょ?だったら、世界史はやるべきだよ。そして、世界史オンリーでわっしょい、わっしょいやるんじゃなくて、多少内容が薄くなっても日本史と関連づけるべきだよ。それが真の意味での社会としての「歴史科」なんじゃないのかしらねえ。