青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

金八レビュー第8シリーズ第7話〜女形という仕事〜

 今回の金八は久々に感動しそうになりました。涙、まではいきませんでしたが。
 あ、ネタバレしますんで。
 女形を父に持つ生徒が、父親の仕事に誇りを持てずに父親を責めたてるといった話で、その気持ちを変えさせるために今回は濱口國雄の『便所掃除』という詩を持ってきていました。誰もがやりたくないような汚い、嫌な便所掃除を誰かがしていることで、当たり前のようにキレイな便所として使える。誰かが輝いている背後には、必ず誰かがそれを陰で支えているのだということを示していました。


 自分の専攻と重ね合わせるとこれは歴史の中でも言えることです。昔は死とは「ケガレ」の象徴でした。その「ケガレ」た死骸は特定の人が掃除をしていました。そしてその「ケガレ」はいつしか蔑視の対象となり、そこから「えた」や「ひにん」と言った身分が表れ、差別を受けるようになっていきます。また昔は芸の世界というのも決していい身分ではありませんでした。芸の世界に生きる人間も、ある意味では一般とは一線を画した特殊な世界を形成していたわけです。特に江戸の吉原に生きる女たち、この前の三丁目の夕日でも踊り子さんが出ていましたが、ああいう人たちは普通の人としての生活が難しい特殊な事情を抱えているのです。


 しかしだからといって、それを蔑視したり、からかったりしていいということにはなりません。実際、死体が河原にうごめいていてはとてもじゃないけど衛生面でよくありません。それを掃除する人がいてこそキレイな生活ができるのです。また、日本における医学には実は被差別民と呼ばれた人が関わっていたのです。当時人の体を解剖するなんてことは「ケガレ」観念からご法度だったわけです。しかし、それを「けがらわしい」といってほうっておいては今の医学の進歩はなかったのかもしれません。こうした事例を聞いて、どう思おうとそれは勝手です。反面教師として受け止めてもいいと思います。しかし、行動だけには表してはいけません。つまり、便所掃除をしていたからといって、また芸の子だからといって、それを差別して蔑んでいいことには絶対ならないのです。





 大事なことは否定ではなく、感謝だと思います。あんまりこういうことは授業ではしたくないのですが、現実としていじめとか、そういう問題に直面したときの切り札としては有効な手法なのではないかと自分は思います。人の支えを「当たり前だ」ではなく、ちょっと立ち止まって感謝したり、また認めてみたりしてみませんか?