青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

思ったこと(長いです)

 今日のシンポジウムに行って思ったこと、社会で生きるには「社会認識」と「社会的行動」が必要ということ。これはどちらが欠けてもいけない。だけど、小学校の先生は基本的に「社会的行動」を重視し、中学や高校の先生は逆に「社会認識」を重視する。これは、「社会的行動」を「体験」、「社会認識」を「知識」と言い換えれば少しは分かるかもしれない。


 

 よく大学1年生が入学した時に先生や先輩に言われることは、「本をたくさん読みなさい」と「いろんな人と出会いなさい」の2つだと思う。これは前者が知識を得ること、つまり「社会認識」、後者が人と出会って人生の経験(体験)を積むこと「社会的行動」であり、その両方を時間のたくさんある大学時代にしておくことが、実は社会で生きるためには必要だよ、という教えである。
 



 今日のシティズンシップの議論はそこに終始していた。つまり、社会科とは「社会で生きるための力」を養うための教科なのである。決して無味乾燥な知識を暗記するだけでない。



 そうはいっても、両方やるというのは難しい。だから僕はどちらかでいいと思う。僕は「社会認識」を取った。バイトもしない、サークルもしない、家に帰ればテレビを見て、パソコンをして、ラジオを聞きながら過ごす。そんな暇ばかりだったけど、今の社会科教育教室にいる学生に比べたら明らかにたくさんのことを勉強してきた。「本は嫌いだ」と豪語しながら何だかんだで本をたくさん読んできた。新宿の紀伊国屋には何度も行った。最近はどこに行くにしても、まず本屋に駆け込む。「本は嫌いだ」と言いながら、何だかんだで本は好きになったのかもしれない。



 実はそれが授業づくりに生きていると思う。今のボランティアに行っている選択社会の先生は文化財を専攻している方で、文化財関連の研究に関して忙しく奔走している方だ。だけど、授業は正直、つまらない。つまらないから子どもが完全に飽きている。というか、聞いちゃいない。早い話が自分も聞かない。3学期に入って入試問題を解いていても相変わらず教科書の、当り前の知識を解説する。
 さらにいえば入試はスピードが命だし、真に勉強になるのは、子どもがなぜそこを間違ったのかを自覚することのはず。それを解説してはいけない。それでは教師の自己満足になってしまう…、いろいろ言いたいことはあるけれど、すんでのところでいつもこらえる。




 もちろんその先生は社会科の知識をよく知っている。知っているけど、ありきたりなことしか教えないだけ。教材選択に問題があるだけである。僕は、物知りなら物知りをアピールすべきだと思う。真に面白い先生は、50分解説しているだけでも面白い。そして面白い先生はだいたい発想が面白い。そしてその発想はだいたい本から得たり、体験したりのはずだ。



 
 社会科で語られる知識は極めて無味乾燥なものである。だけど、身近な事例が出てくるだけで全く違う。例えば、女の子が好きそうな「ブランド物」、あれひとつをとるにしても、公民的分野では「信用」という話ができる。ただのバックなのに、ヴィトンのマークがあるだけで人々はそれに群がり、そこに価値を見いだす。そこに存在するのは社会の中で「ヴィトンのバックは高価なもの」という人々の「合意」と「信用」である。これはつきつめていえば、お金だってただの紙切れなのに、「信用」の名の下で保障されている。
 それから、歴史的分野なら、例えば平安時代、国風文化と呼ばれるけれど、平安時代は貴族の女性たちが中国の品物(唐物)を身にまとい、お上品さをアピールしている。これは唐物が一種のブランドであったことを示す。ということは、今も昔も女性はおしゃれが好きだった、ってことになる。




 ほら、「ブランド物」だけでも社会科はこんなに可能性が広がる。でも、こうした考えは一朝一夕ではできない。やっぱりいろんな本や、いろんな人から情報を入手し、それを自分なりに整理するからこそなせる、一種の「業」である。




 個人的には社会科の先生は、そういうところを磨くべきだと思う。そしてそれを惜しげもなく子どもに披露すべきだと思う。これは大学時代を「社会認識」(知識)を鍛えるのに過ごした自分の得意な面を活かす方法。もちろん、頭でっかちだし、「社会的行動」(体験)という部分は少ない。だから僕は飲み会に行っても色恋沙汰の話になると途端に黙る。人ともあまり会わないから、他人がしたおかしいエピソードとか、そんなのも一切なし。真面目な話しかできないから、飲み会も人によっては味気なくなると思う。だから、僕は飲み会の雰囲気が少々苦手。そんなことを1日の集まりで実感した。



 でも、そういうのが得意ならそういうのを生かせばいい。それは別に教師になるやつだけの話ではない。社会という集団の中では人間は一種の「キャラクター」を演じているわけだから、その「キャラクター」を見つければいいだけの話である。この「キャラクター」のズレを人は「ギャップ」というわけです。「ギャップ」のある人がモテるらしいけどね。




 …もう、この辺にしますわ。というわけで、2009年の自分に欠けているものが「社会的行動」(体験)であることが分かったという辺りでしめます。長々とありがとうございました。