青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

スタイル

 僕はなぜこの3年間で退化してしまったのだろうか。
 3年前、確かにあの場所で自分は教育実習をした。8人で協力してひとつの授業をみんなで作っていった。あの時の授業への純粋さ・ひたむきさは今でも忘れる事ができないし、それを糧に自分はさらに教師になろうという思いを強くした。
 しかし3年後、その希望が絶望へと変わっていた。明らかに子どもが飽きていた。つまらなさそうな顔をしていた。それは自分の教材観や教育観を押し売りしてしまったからだと思う。そしてひとりで抱え込んで授業を作っていたからだと思う。
 そんな子どもたちに自分が投げ入れで授業をしてしまった事を本当に申し訳なく感じた。本当は附属の先生の授業がいいだろうに、それを我慢して聞いてくれていたんだと思う。






 悲しかった。







 一番悲しかったのは、「声が小さくなっていたこと」だった。





 
 かつて自分は「教材研究の量がそのまま自信(声の大きさ)につながる」と書いていた。
 声が小さいという事は、明らかな教材研究不足だということだ。





 ということは、かつての自分よりも大幅に退化し、教師の基本を忘れてしまったということである。




 それが一番悔しかった。
 授業の内容は子どもの反応以前に、何より自分が教師として一番心がけていたことを自分が忘れていたことに一番腹が立った。




 授業の良し悪しは日によって、子どもによって違う。
 でも、違っていたにしても教師としてのプライドだけは持っていてほしかった。





 今の自分にはそのプライドが微塵も感じられなかった。




 
 おまけに社会人としても最悪の行為をした。
 まずは、全く考えもせず適当に授業案を持っていったこと。
 そして、附属の先生を失望させたこと。
 



 さらに、授業のショックから三脚を忘れてしまったこと。
 あったからよかったものの、もし見つからなかったらどうするつもりだったのか。
 誤って済む問題ではない。研究室の借りものを無くすなど前代未聞である。




 それだけ自分は社会人としても、教師としても最悪な人間になってしまったということである。




 なぜ、自分は退化してしまったのか。
 それは結局、自分の「スタイル」を確立できなかったことに一番の問題があるように思う。
 要は顔色うかがいをすごくたくさんして、あっちの先生にはこう対応し、こっちの先生にはこう対応して、という感じで過ごしてきたからだと思う。
 研究とは、本来自分の「型」をきちんと決め、その「型」に沿って論を立て実践していくことが求められるだろう。
 学部の時の自分はそれが「歴史学」であり、「地域」であったのである。
 しかし、大学院に入って自分は、そのスタイルを捨てようとした。しかし、捨てられなかった。その結果、自分は「型」を見失った。おまけに歴史ではなく、社会科の中での歴史という議論が、自分の「型」をさらに見失わせることになった。




 教職大学院にいる知り合いは、「教育評価」という型を見つけ、その型にそって、教育心理学などもベースに理論研究し、その実践を大学院の実習で行っている。でも、彼だって1年の8月までは型が決まっていなかったようである。
 なぜ自分はあの1年間で自分の「型」を模索しようとしなかったのだろうか。
 なぜ自分は今になっても「型」を作ろうとしないのか。
 それは環境が悪い、確かにそれもある。
 でも、究極は自分がやればいいだけの話である。
 「型」のない人間はやはり卑怯である。



 自分は卑怯な人間になってしまったのだろう。
 そんな卑怯な人間の本性なんか、中学生にはお見通しだったんだろう。
 虚勢を張ろうとした。「教師」であろうとした。
 それが失敗だったんだと思う。




 高度情報化社会、価値観多様な社会、複雑な社会の中で生きていく術を自分はつけられていないんだろうな、と思う。口では頭ではそれが言えるけど、それが行動を伴っていないんだと思う。
 あと2か月ちょっと、2割ぐらいしかできていない論文を、100%に持っていくために、これから死に物狂いで頑張っていくしかないだろう。
 その決意のために、また、気持ちを切り替えるために、長々と自分の意見を吐き出してみた。
 誰も見てくれなくていい。目で自分の気持ちを確認することで、自分は次の一歩に進めていこうと思い、この文章を書いている。
 そして誰かがこの文章を全部読んでくれているなら、それはそれで感謝したいと思う。