青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

社会系教科教育学会参加記1〜「一言言いたい!」編

 とりあえず新幹線の中で思ったことの概略はツイートしたので、今日はそれを文章にする作業。今日は、発表を聞いてて、「えっ、こんなのアリかよ!?」と正直思ってしまったものから書きます。若干の批評・批判も含みますので、あしからず。



 今回対象とするのは、「歴史解釈の学問性と自由性の両立をめざした資料学習の授業方略」という岡山大学の院生の発表。
 ちなみに、これに近いことを修士論文で書いていた自分。おまけに2年前にここの場(兵庫教育大学)で発表してるっていうね(笑)。




 内容は、歴史解釈を構築させる際に、常につきまとう、学問性と自由性の両立の問題を解消するための史料学習の方法を明らかにする、というもの。
 いやあ、タイトルだけ聞くと、めっちゃ興味がありますよね。だから、聞きに行ったわけです。
 ただ、自分の正直な感想は、「これは反則や」「これはないわ」「これずるいわ」という感じでした。
 具体的には…

  1. おそらく、この人の研究のオリジナリティは、アメリカの教科書や教材を分析し、それに基づいて史料学習を類型化したところにある。しかし、今回の発表はそれじゃなく、類型化したものに、先行実践をただあてはめただけのものであること。
  2. 類型目的型の研究になっていること。ゆえに、主張が全くない。僕の社会科教育の師匠(W先生)は、「類型はそれを目的にしてはいけない。必ず、自分の主張の立ち位置を明らかにするために、類型化するんだ」と言っていた。現に、司会が「あなたはどの立ち位置で史料学習をしますか?」という研究の根幹に関わる質問に対して、「それは、扱う史料によって違います」って、反則じゃん!ゆえに、主張が全くない。
  3. それと、自分の授業を作らないのは反則。この研究タイトルだったら、授業方略を明らかにした上で、自分で資料を見つけ、授業を構成することが大切である。しかし、この発表ではそれがなく、他人の実践(青木先生のビゴーの風刺画のやつと、原田智仁先生のシャリヴァリのやつ)を載せているだけになっている。

 という感じでした。なので、結局、学問性とか自由性とか、そんなの抜きにして、研究手法の問題性にばかり目がいってしまいました。
 ちなみに、学問性のとらえ方も歴史学史料批判に立脚しているけど、その史料批判についての見方も単純だし、自由と自由じゃないという考え方もよく分からん。





 ちなみに僕は、学問性については歴史解釈を構築する際には、何も歴史学にこだわる必要性はないと感じている人間で、その事例としてアメリカのフェントンを使ったわけだし、自由性に関しても、僕が考える自由は、「ブルーナー」的な思考プロセスを繰り返し探求させることであり、これこそが、自由性を保障し、かつ学問性も保障することだ、と考えているから、とんだお門違いなんだけどさ。




 でも、この発表を聞いて、改めて「史料」って何だろう、って考えさせられましたね。今年4月からの日本史では、日本現代史を1年かけてやってみようと考えているから、例えば、「あなたにとって、1980年代とは?」「1980年代であなたが一番印象に残っている出来事は?」みたいなインタビューをさせて、それを史料として活用しながら、自分なりの、あるいはクラス全体での「1980年代像」を想像させることも、立派な歴史解釈であり、その資料の一端として教科書的な知識や、政治的出来事、経済などを教えられたらいいな、って思っています。
 



 これは、僕が20代だからこそできる気がするんだよね。「幸福な若者たち」の作者じゃないけど、リアルタイムに生きている人にとって、「ALWAYS」の世界は、身近に感じるけど、生きていない人にとっては、それは「歴史」でしかないからね。だから僕にとっては、1980年代も、バブルも、「歴史」なんだよね。




 学問性にはほど遠いけど、史料や資料に、生徒をじっくりと向き合わせ、その上で生徒の歴史像や解釈を聞きながら、ゆっくりやっていくのもいいかな、と思いました。



 ただ、それができる器量が僕にはないだろうから、途中で頓挫しそうだけどね(笑)。そしたら、教科書教えればいいだけだろうし。




 ちなみに「史料」で思い出したけど、アクションリサーチを用いた世界史の授業実践のやつも聞いたけど、あれをわざわざ「アクションリサーチ」と定義づける意味を感じちゃった。ぶっちゃけ単なる授業研究だし、「認識の変容なんて、そんなもん教師が内容教えたら、誰でも変容するわい!」って思っちゃった。



 ちなみに研究手法として、「認識の変容」を扱っている時には、その背後にある「講義」をした部分を絶対に明らかにしない!この発表も例外なくそうで隠れていた(まあ、レジュメには書いてあったけど)。だから「認識が変容した」ところで、結局、「教師の意図をくみ取って(正解を探して)」書いているに過ぎないんだよね。
 「歴史の見方・考え方の深化=認識の変容」って単純にとらえていいんだったら、僕はいくらでもそういう授業を作れるよ。それよりも僕は、「中華帝国」とか「華夷思想」とか「封建国家」とか、そういう何だか訳のわからない抽象的な「概念」を「自分の言葉で説明できるようになった時」に、「歴史の見方・考え方は深化した」って思うけどね。




 ちなみに、「アヘン戦争」を使って大胆にもそれにチャレンジし、あっけなく失敗したけど、とにかく何かまとめなきゃ、って言って、書いたのが僕の修士論文(実践編、提出したver.)だったんだよね。懐かしいなあ。




 ふう、久々に長文を書いた。でも、講評するって楽しいね。かつてはこんなこと当たり前にやっていたんだよなあ。