青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

 最近上の国文学史の書評を書くために俵万智の「短歌をよむ」を読んでいます。そこには短歌を詠むためのネタの出し方から推敲の仕方、具体的短歌を挙げての短歌の特徴など短歌のいろはがぎっしりと詰まっているわけなんですが、この本を読んでて思うのは短歌をよむこととネタを書いて投稿することは似ているのではないか、と。

 すなわち、短歌も投稿も他者に見てもらい、評価される点においては同じなのではないか、ということです。俵万智の有名な短歌に「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日というのがありますが、実はこれはまったくの実体験ではないわけです。別に七月六日に誰かにサラダがいいね、といわれたわけではないし、君がそこにいたわけでもないかもしれません。別にサラダで無くたって、七月六日でなくたってよかったのです。

 では、なぜサラダと七月六日が出てきたのか、それは短歌をよりよくみせるための技法、この本によれば「S音のちから」を借りたわけです。S音には爽やかさや清々しさを感じる、その中にどこか切ない音を感じる、そういう音だと書いています。

 もちろん実体験をそのまま、といういわゆる自然主義的な考えも一方では往々にして存在しますが、とりわけこの有名なうたに関してはそうではなく、技法を駆使した演出だった、と言えるでしょう。
 
 それは投稿活動にも当てはまると思います。投稿者はハガキ、あるいはメールの中で「どうすれば面白いか、どうすれば読まれるか、どうすればインパクトを与えることができるのか」などを考えながら、ネタを出していると思います。そして、その方向性は他者、つまり短歌ではよんでくれる人や選者、ネタにおいては番組や雑誌の選者に向けられていると思います。もちろん、そうではない、自己満足だという人もいるのかもしれません。しかし、雑誌に掲載される、あるいは番組で読まれる、ということは選者がそれを見て、採用するという他者性の中に成り立っているわけです。

 それゆえ、この本を読んでネタの出し方、「なぜこれが読まれたのか」からの推敲の研究などかなり共通する面を多く発見して、すごく勉強になっています。

 以上、一応まだ途中ですが、僕なりに現段階で書評をしてみました。ちょっと文章がおかしいのですが、その辺は論が分からなくなってしまったということでご容赦下さい。