青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

社会科は市民参加を促す教科か

 自分の考えの整理のために書いております。以下長くなるので見たい方のみでお願いします。

 みなさんは社会科にどんなイメージを持っているでしょうか?



 もちろん、教科書をいかに効率よく覚えるか、っていう授業ですよね。



 そして公民科にどんなイメージを持っていますか?



 もちろん、教科書に書かれている憲法を暗記したり、国会の仕組みを暗記したり、経済用語を暗記したり…そんな授業ですよね。



 その一方で、現実の社会を見てみると、複雑化した社会で、人々の中に「普通」や「当たり前」といった概念が喪失し、今求められているのは「自分らしさ」とか「自分の意見を述べる力」、そんなものが求められています。
 おりしも日本が学力低下したっていう根も葉もない情報を流すことになったPISAでは、知識を「持っている」だけではダメで、それを「活用」する力が求められています。



 つまり、社会科の知識も座学で教科書で覚えているだけではダメで、それを(特に公民的分野では)実際の社会問題に照らし合わせたり、あるいは地域社会で活用することが求められてきているわけです。




 また、数学などのように科学的真理に向けて答えが多様であるばかりでなく、社会は答えが多様であれば、その答え方もまた多様です。あそこの地域では正解でも、向こうの地域では不正解、なんてことは社会ではよくある話です。



 だからこそ社会科では社会をいかにとらえるか(社会認識)、と同時にそれを現実の社会でいかに活かしていくか(市民的資質・市民的活動)が求められているわけです。



 そんな社会科の潮流を、西の学会も大きく受け止め、科学主義に対する批判としての、合理的意思決定主義、さらにはそれを超えた社会参加主義の学習方法が社会科の中で模索されています。
 これは、東の学会では長らく系統主義と問題解決主義という二項対立で語られてきた問題であります。




 また一方で、学校カリキュラム全体で見ると、例えば中学校段階ではキャリア教育の一環として、1週間の職業体験が義務付けられていたり、高等学校段階では奉仕活動(東京都)、地域の祭りへの参加(例えばうちの母校をはじめとする青森県の高校)、地域の問題を実際に考える活動(例えば埼玉県の桶川市の実践や青森県のある総合学科の高校にある「あすなろ科」などはその典型だろう)などなど、地域社会に積極的に関わっていく活動が、中等教育段階で幅広く見られている現状があるわけです。




 こんな現状に対して、社会科は、そして社会科の教師は無力であってよいのでしょうか。



 もちろん、小学校段階では3年生や4年生の段階で、地域学習をして、地域を知る活動は社会科の中に位置づけられています。しかし、中等教育段階になると、地理・歴史・公民、という系統主義に分けられ、さも相互不可侵であるかのように、おまけにそれ固有の知識を教える事が、唯一絶対であるかのように授業されていて、実際に社会に出る活動とは無意識に切り離されている現状があります。




 これはいかがなものでしょう。
 もちろん、自分は社会科固有のものを大切にする立場なので、連携って言葉は極力使いたくありません。ですが、こうした総合的な学習の時間にあたるような学習と一番密接に関わるのは本来、社会科という領域であり、だからこそ社会科は「つながる」部分を作っていかなくてはならないでしょう。
 また同時に、社会科でいかなる力を身につければ、現実社会を見定める視点をつけることができるのか、と同時に、望ましい社会形成や社会参加に主体的に携わっていくことができるのか、これを議論することが今求められているのだと思います。




 もちろん自分は、社会参加を目的化することは必要ないと思います。でも、自分たちが主体的に問題を解決した場合、自然と社会参加への態度が養われることでしょう。自由主義教育論はこれを嫌いますし、こんなことを書くと、「お前は社会参加タイプの人間か」と二分されちゃいそうですが、そういう二分論の議論を超えた議論が必要でしょう。
 社会参加の態度は、社会参加を目的とするのではなく、社会参加をするための討論学習を組織することで、自然と身につくものだと思います。そしてそれが社会科固有の参加学習の在り方だと思いますが、いかがでしょうね。





 ってな感じで、修士論文をねぶたの問題「祭りの衣装の規制を緩めるべきか、否か」(自由参加という歴史と伝統VS現代社会の行政による衣裳・参加方法の規制)でやれたら、最高ですね。
 ただ、できるかねえ…?やらせてくれるかねえ…?それは分からないわ。