青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

歴史って何ぞや

 これは究極、自分の論文の素案になる部分なのでだらだら長く書きます。以下、見たい方のみで。
 歴史教育関連の文献を読むと、歴史って何なのかがよく分からなくなります。
 歴史を教える、という時に基本的に二つの流れがあります。
 ひとつは歴史を教える、っていうの。もうひとつは歴史で社会を教えるっていうのです。
 自分は社会科にとっては歴史は後者で教えるべきだと考えます。
 しかし、うちのS先生の発想は前者です。
 もちろん、前者の発想を批判することはそんなに難しくありません。
 一番は、歴史を教えることに意味があるのか、ってことです。
 結局、歴史というのは誰かの解釈(誰かの物語)に過ぎません。ということは、その解釈をただ教えるということは、興味のない子どもにとっては無意味な活動でしかありません。これが歴史を暗記に陥らせているものです。
 じゃあ、どうすればいいか。
 歴史を教える者たちはいろいろな策を練りました。
 A子どもの身近な歴史を教えたらどうか
 B子どもの感情に訴えてはどうか
 C子どもなりの歴史像を描かせて、それを発表しあうのはどうか
 D歴史解釈をいろいろ示して、社会を見る視点を養ってはどうか
 でも、いずれも完璧な策ではありません。
 簡単にいえば、子どもなりの歴史でいいのか、っていうことと、じゃあ、教師が講釈たれて歴史を教えるのはどうなの?っていう対立です。
 社会科的にはこれを系統学習と問題解決学習の二項対立と呼びます。
 でも、この議論には大きな欠陥があります。
 それは、結局「歴史」を教えているに過ぎないということです。
 歴史解釈を教えたって、子どもなりの歴史像を描かせたって、所詮は歴史の知識でしかありません。
 なので、ずばりいうと、そんな歴史は社会を見るには役に立たない、っていう発想。
 そこで自分は、
 社会科学(経済や政治)の見方・考え方を教えること、そのために歴史を教えること、を提唱します。
 それはなぜか。
 A社会科学の見方・考え方を学習すれば、歴史に限らず現代社会を見る目を養うことができる。
 Bそうした見方こそが実は豊かな歴史解釈を生む
 C子どもなりに歴史を見るという事は、子どもが現代との対話をしているということ。であるならば、社会の見方考え方を教えた方が賢明
 そして手法としては「なぜ〜?」という探求学習の手法を取ります。
 それはなぜか。
 Aこれまでの歴史授業は「いかに」で教えることが多かった。それが事象の羅列・知識の暗記につながった。
 B「なぜ〜?」という問いとその答えの間には、考えのプロセスがたくさんある。そして、たくさんあるということは、それだけ多様な解釈(仮説)を生むことができる。
 C「なぜ〜?」と問う事が、子どもの自己学習力につながると考える。
 以上である。
 


 とここまで書いてきたが、
 Aこの発想はS先生の考える歴史教育とは真逆の発想をしているということを自覚している
 Bそうはいっても、歴史は想像したり、思いを馳せたりするものだ、と自分も思っている
 Cやっぱり歴史は大好き
 という理由で、なかなか論文への一歩が踏み出せないでいました。



 けれど、迷っていても始まりません。とりあえず誤解されても自分の考えを出すことを最優先したいと思います。そんな決意で今書きました。