青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

市民性教育について考える1〜そもそもなぜ市民性教育か〜

 ルネサンスと連動して述べます。一応長く難しくなるので見たい方だけどうぞ。
 まず、自分が主張したいことは、
 1.市民性教育のことを一番考えなければならないのは社会科の教師であること
 2.市民性教育は社会科の教師だけでなく、すべての教師が考えなければならないこと
 である。


 以下、項を分けて先の自分の主張の根拠を論じたい。今日はその導入として、
 1.市民性教育とは何か
 2.なぜ市民性教育が必要となったのか
 について述べることとする。

 
 そもそも市民性教育(シティズンシップ教育)は、教育ルネサンスによれば、
 

 個人が社会に参加していく際の能力を身につけるための教育。欧米を中心に導入され、「市民教育」などと訳される。社会の仕組みの理解に重点を置く「公民教育」とは異なり、具体的に社会参加する方法を、体験を通して学ぶ。英国は2002年、日本の中高生に相当する生徒に必修化した。


 となっている。そして、なぜこれが今流行なのか。これも教育ルネサンスによれば、

 シチズンシップ教育が注目される背景には、経済成長により国民が物質的な豊かさを獲得し、価値観が多様化したことがある。この結果、進路の選択肢が増える一方で、ボランティア活動などで精神的な豊かさを求めることも一般化し、社会にかかわる力がより求められるようになった。


 先の1と2の問に端的に答えるとこうなるであろう。さらに詳しく言えば市民性教育が叫ばれた背景には
 1.選択能力を養うこと。
 2.社会に出て役立つ教育を
 3.多くの人と出会い、精神的な豊かさ、社会にかかわる力の育成を。
 この3点がある。


 今回はそのうち、1.についての話題提供をしたいと思う。


 1にある背後には社会の複雑化がある。我々の目の前にある社会は、グローバル化や高度情報化社会によって、複雑多様化している。そして、社会が複雑であるということは、当然そこに含まれる価値も複雑に絡み合ってくる。


 例えば今日の医学の進歩は人の生をある程度コントロールできるようになった。そのため、植物人間でも心臓が生きている限りは延命措置を行い、生きることが可能である。しかし、そんな植物人間を生かすためには膨大な費用がかかる。生きていても動くことは一生ない。そんなことをしてまで延命をしてほしくない、そう親族が望んだ場合、当人が望んでいるかどうかに関わらず、延命措置をやめることがある。これがいわゆる安楽死の問題である。


 この安楽死の問題においても、「人の命を粗末にするな!それは人殺しだ」という意見と、「一生助からないのなら、延命することなく楽に死なせてあげた方が当人の為である」という意見とが対立するだろう。これはどっちが正しいということはない。敢えて言えばどっちも正しい。


 現代社会にはこうした選択や価値を伴う問題が非常に多くはらんでいる。そして、実際そうした問題に我々が直面したとき(これは安楽死の問題に限ったことではない)、何もできず、何も知らず、どうすることもできない、ではいけないのではないか、というのが1の背景にある。




 これは現代社会に限らず進路選択の問題でもそうである。現在の高校は、単位制とか、総合学科とか、たくさんの学科が乱立している。これは学校が特色を出すためであるだろう。つまり、中学生がこれから進む高校も複雑多様化しているのである。
 そうした複雑なものを生徒がうまく解きほぐして自分の進路を選択する、これが今の子どもに、教師に求められる資質である。
 しかし、社会が複雑になればなるほど、その反動で我々は選択の幅が狭めるということがよくある。特に答えや結果を求めたがる日本人ならなおさらであろう。では中学生や教師は何に選択を求めるか。
 もちろん「学力」にである。実は進路選択の背後には学力絶対主義観の進展が蔓延しているのである。



 今回は、社会の複雑化による選択能力の育成の重要性と、その背後にその反動で、我々自身が選択の幅を狭めているという現状、問題点を指摘した。だからこそ、教師は多様な情報をうまく整理できる能力が求められていると、いうこともできよう。


 次回は2.について述べていく。