青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

市民性教育について考える2〜生きて役立つ力をつける〜

 前回より始まった真面目なコラム。以下、興味のある方だけ。
 昨日は、市民性教育の定義、及びなぜ市民性教育が叫ばれたのかについて述べた。
 市民性教育が叫ばれるようになったのはおおよそ以下の3点によるであろう。


 1.選択能力を養うこと。

 2.社会に出て役立つ教育を

 3.多くの人と出会い、精神的な豊かさ、社会にかかわる力の育成を。



 このうち、昨日は1について述べた。一言でいえば、1の背後には「社会の複雑化」とそれによって選択肢が広がり、「選択能力」が求められるようになったことがある。しかし、複雑化することにより、逆に選択の幅を狭めている、具体的には「学力」という指標によって選択しているに過ぎないという問題点を指摘した。



 今日は2についてである。


 2についても主張を先取りすれば、1が「役立つ」ための教育、つまり具体的な選択が、ある程度シュミレーションされなければ社会に出ても意味がない、役に立たない、という主張である。



 例えば、7月8日付と9日付の教育ルネサンスは、それぞれキャリア教育と金融教育について取り上げていた。
 7月8日のルネサンスでは、生徒だけの会社をつくり、生産・販売・運営などをすべて自分たちで行う、広島県尾道市の市立原田中学校の「ナチュラル・リサイクル・コーポレーション」という架空の会社を紹介していた。
 こうした活動にも、
 1.実際の職業観(働くこと)を養う
 2.社会と関わることでコミュニケーションスキルを養う
 3.生きた社会の学習になる


 といった利点を見ることができるだろう。おそらく総合的な学習の時間を通じて、これらの活動を行うことで、「地域に関わり」「役立つ力」を育成しているのである。



 これは特色ある実践であるが、現在多くの中学校では2年生の段階で1週間の職業体験を行っている。これだって十分、社会で生きるための教育である。



 しかし、こうした教育には意義が大きい反面、多くの問題が生ずる。
 まず、地域と関わることはそれだけ地域との連携が図らねばならない、ということである。2年生の先生の職業体験前の忙しさといったら半端ない。赴任先を探し、連絡をとり、挨拶にいき・・・こうした労力が教師にふりかかってくる。ただでさえ、学校文化というのは実際の社会とは大きく異なるのに。



 しかし、こうした教師の苦労だけでなく、もっと根本的な問題は、
 

 学校でやっている授業を無意味にする



 ということである。地域と関わり、地域で学んでいくための知識と、社会科で学ぶ徳川家康は何のつながりがあるのだろう。


 もともと、学校の授業内容は形式陶冶と呼ばれ、その内容自体に意味はないものばかりである。徳川家康が大事なのではなく、徳川家康を教師の指示通りにきちんと理解し、きちんと答えられる、社会に順応できる人間の育成こそが、形式陶冶の目的なのである。
 だから、英語もコミュニケーションではなく、文法をしこたま学習する。これは学校カリキュラムの内容がそもそも「役立つ」ように作られていないからである。



 しかし、現在こうしたあり方が批判されつつある。つまり、内容面の実質陶冶化である。小学校段階での英語の導入、コミュニケーションスキル重視の要因のひとつには、実は社会の複雑化による内容が「役立つ」ものであるべきだ、とする考えがある。



 確かに社会に出て役立つ能力や技能を教えることは大切だ。しかし、それなら学校なんていらないと自分は思う。小学校段階で、職業のガイダンス教育を施して、後は現場に出してやった方がよっぽど社会適応できるのではないか。



 はっきりいって生きた知識を学習させるために学校という存在は邪魔である。そうしたことを現在、すべて学校に押し付けているという事実を今日は知ってほしい。



 今日のまとめ
1.複雑化した社会の中で、きちんとした選択能力を育成し、かつそれが「生きた」力となるために、キャリア教育を始めとした多くの市民性教育が推奨されている。
2.その背景には形式陶冶から実質陶冶へ、教育内容を変えていくべきとする考え方がある。
2.しかし、それはともすると、「授業不要論」「学校不要論」と一緒である。こうしたあり方によって、子どもはますます授業を受けることに意味を見出さなくなる(そうはいっても、子どもは受験のためと割り切るだろうが)。