青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

ゆとり世代の次はさとり世代

 http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1002/02/news060.html


 これはすごく言い得て妙だなと思いました。



 集約すると、さとり世代は「結果のわかってることに手を出さない。草食系。過程より結果を重視。浪費をしない」と記事にはあります。



 これは、教育政策及び実際の学校現場がその片棒を担っているのだろうなと思います。

 現在の教育政策は(もちろん、もうすぐ変わりますが)、いわゆる「ゆとり」と「個性」です。これは、多元化する価値、高度情報化社会の中で、今までのように事象を教え込んでいては、子どもの頭がパンクしてしまう。それならばいっそ、学習方法を教えることで、多元化する価値や、たくさんの情報の中から、自分で取捨選択ができるようになろう。そして、そこで生まれた考え方を「承認」してあげましょう、という方針です。だから、教えるべき内容も削減し、教科主義の発想から、総合的な学習の発想へと転換していったわけです。



 ただ、ゆとりからの転換が謳われたように、教育現場の先生はそれをどこまで理解していたでしょうか。「教えるべき内容以上のことは教えてはいけない」、「子どもから出てきた考えは、すべて認めなければいけない」、そんな道徳めいた誤解が現場に広がっていったように思います。




 その結果、ゆとり教育は、学力低下とも結びつき、最低の烙印を押されて、あと2〜3年で変更することが決まりました。




 さて、教育学の分野ではいわゆる「隠れカリキュラム」研究と呼ばれる分野があります。これは、表面上では見えないカリキュラムの効果を、実際の分析を通して可視化し、教育の問題点を洗いざらい明らかにするという分野です。
 例えば、学校現場にはそんな「隠れた」効果がたくさんあります。整列する、気をつけをする、授業中は席に着く、などなど。これらは本来、社会的な文脈の中から生まれた改編可能なルールでしかありません。
 そんな「隠れた」効果の最たる例が学習指導要領です。とりわけ現行の「ゆとり」と「個性」重視の学習は、結果として教育格差を助長する結果となりました。




 なぜそうなったのでしょう。




 まず、「ゆとり」教育とは、学習内容・学習時間の削減により、学校内での教える内容が大幅に制限されます。しかし、こうした考えは早くから、基礎学力の低下と結びつきました。そこで、東京のような所得層の高い家庭は、子どもたちの学力を維持するために塾に入れました。塾産業が活性化したのは、ひとえにこの「ゆとり」指導要領のおかげでしょう。
 そうなると、塾に行ける子と行けない子の差はどうなるでしょう。教師は学習指導要領の範囲内でしか授業をしません。一方塾では、学習指導要領を超えた内容を教えてくれます。例えば、正三角形の面積の公式なんて教科書にはどこにも書いていません。でも、塾では教えてくれます。ということは、双方の間に学力的な格差が生まれてしまいます。




 でも、こうした批判が可能です。例えば、学力の定義を変える、具体的にはテスト問題、試験問題の転換です。
 では、試験問題は変更されているでしょうか。
 残念ながら、試験問題は変更していません。しかも、「個性」の名の下に試験問題にも差がつけられています。
 



 例えば、東京都の公立高校には、独自問題を課す学校が存在します。日比谷、戸山、西…。しかも、こうした独自問題は、ちょっとやそっとじゃ解けない問題になっています。自分は日比谷の数学を解いてみましたが、46点しか取れませんでした。それだけ難しいのです。




 こうした難関校は塾のようなところで対策をたてないととてもじゃないが入学できません。となると、塾にいけるやつが難関校に行き、東大のようなエリート大学に入って社会の上部でいばりちらし、塾に行けないような人が、底辺校に行き、社会の下部で、上部の政策に刃向える力もなく、働かざるを得ない環境が出来上がっているのです。




 しかもこれが、生まれ持った親の所得階層に強く規定されているから性質が悪い。つまり、弁護士とか国家公務員のような生まれのボンボンは金もあるから塾に行き、難関校に入れるだけの支援を受け、片親でパートタイムで生活しているところの生まれの子どもは、塾に行くお金もないから、難関校に入れる可能性はゼロではないが、限りなくゼロに近い、という結果になっています。




 東大の教育社会学者、本田由紀は、こうした生まれ持った所得により、子どもの社会階層が規定される社会をハイパーメリトクラシー社会と呼んでいます。しかも、東京都の公立高校の入学システムが、それを露骨に示していることを、以前カリキュラム学会で報告していました。
 教育環境の多様化に伴う、個性重視の教育は、子どもを一律に見るというしがらみからは子どもを解放しましたが、子どもに自分の道は自分で切り開かなければならない、という自己責任論を押し付け、しかも東京都では、それを多様な形の高等学校という形で具現化しているわけです。





 そんな社会だからこそ、子どもは中学ぐらいになると、例え教師が、「みんな違ってみんないい」「自分の夢を実現しよう」「夢の実現のために勉強しよう」などと、きれいごとを抜かしても、子どもはその言葉の裏にある、「どうぜ自分は、ここの階層だから、自分の夢なんて実現できないし。勉強しても無駄じゃね?」ということを言葉では表現しないけれども、感じているのではないでしょうか。つまり、大人(教師)のきれいごとの言葉の裏にあるものを、高度情報化社会でいろんなところから情報が入り込んでくる中で、うすうす読み取っているのではないでしょうか。




 こうした「さとり」を開きつつある子どもたちを変えるためには、制度的な変革を求めるのが一番よいのでしょうが、どこの政党が政権を握っても、学習指導要領は、子どもを「バカ」にするようにしか作らないはずだし、教育への予算はどの予算よりも一番先に削られ、一番後に審議されるものなので全く期待できません。



 であるならば、最終的には教師が賢くなる必要があります。つまり、学習指導要領の世界をも相対化し、高い市民的資質を身に付けた教師が何より求められていると思います。もちろん、それを子どもに全部しろ、と言っているわけでは全くありません。でも、少なくとも教師は、「自分の一挙手一投足がすべて教育行為であること」「学習指導要領は、善良な市民を生むためには全く作られていない」ことを、心のどこかで知っておく必要はあると自分は考えています。




 さとり世代の子どもたちにしてあげられること、それは教師自身が何より子どものさとりを読み取り、そのさとりに対して手を差し伸べることだと思うのですが…、いかがでしょう?