青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

無知の知

 昔の哲学者はいいことを言ったものです。
 教師とは「無知の知」を探求すべき人間であると感じました。
 自分は今週、中学生を相手に授業をしましたが、その時に自分がしていたことは「知らないことを教えてあげる」という位置づけでした。
 まあ、向こうもそれを望んでいたような感じがしたのでやったまでですが。


 しかし、人間が知ることができる量には限界があります。
 そして、人間が知る範囲には必ずその人の価値観が入り込んでいます。


 例えば歴史を教えるにしても「完全な歴史」というのは存在しません。教師が子どもに教えているのは「教科書にある歴史」=「国家の(都合のよい)歴史」ということになります。
 歴史を教えるものは常にそこからの脱却を求めます。
 そのひとつが、視点を変えることでしょう。つまり、個・地域の歴史に焦点を当てることです。
 しかし、こうした微細な歴史は悪くいえばトリビアにしかなりません。
 重要なのは、個・地域の歴史を扱うにしても、それが社会とどうかかわっているのかを見ることでしょう。
 


 要は見方・考え方を子どもに示すこと、これが社会科の仕事であり、物知りになることは二の次なのです。
 もちろん子どもは、物知りになることの方に興味を示します。政治や経済などの難しい話は、本当にいやそうな顔をします。
 そこで鬼になる。これが真に社会科としての歴史になるか、ならないかの差だと思います。



 それと、もはや授業レベルでものを考えるのをやめていくべきです。これは自分に言い聞かせながら書いています。単元・年間レベルで子どもに何を育てていけばよいか、社会認識や市民的資質を育てるには、目先ではなく、1年、あるいは3年かけて考えていくことが大事なのだと思います。
 今まで実習などでやってきたことは高校野球にしか過ぎません。これからプロになるわけですから、目の前の試合、ではなく、1年間ローテーションを守るためには、という感覚で授業をすることが必要になってくると思います。
 それを言い聞かせて論文は来週から頑張ろうと思います。




 あ、ちなみに「無知の知」を取り上げたのは、歴史の事実=知として子どもに教えるのではなく、見方や考え方を教えることで、自分の知らないことを子どもからも吸収していこうとする姿勢が大事だよ、って意味で書きました。