青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

現代史を教えることの難しさ

 昨日の集まりの中でも自分は吐露してしまったけど、来年度から、東京都では日本史が必修化される。それに合わせて、うちの学校でも(というか僕の一存で)、地理を日本史に変更し、これから入ってくる1年生に対して日本史を教えることになる。
 まあ、まがいなりにももともとは日本史の専門家だったわけだし、採用自体も日本史採用なわけだから、周りからみれば「ようやく専門ができてよかったですね」になる。


 でもこの2年、1年生を相手に地理を教えていて、3年生相手に日本史を教えていて、分かったことがある。
 うちの学校のように、社会科に関する知識の差が激しく、特に、社会科に関する知識が全くないやつもいるような学校では、生徒は印象で語ってくるので、より現代的なことを教えた方が食いつきがよく、逆に、日本史のように現代からかけ離れた事例になればなるほど、生徒の興味は減退している(または、そういうもんだと割り切って、暗記科目としてとらえて勉強している)。
 これは、自分の教材研究不足がなせる技なんだろうとは思うんだが、とにかく、うちの学校では日本史は不要だ!その思いをやつらに社会科を教えれば教えるほど強く感じる。
 じゃあ、やつらが食いついてくるようにするためには…、そこで思いついたのが、日本現代史に特化した日本史授業なわけなんだが・・・






 これもまた、非常に難しい。その難しさはいくつかある。



  1. 自分が専門外だ、ということがある。
  2. その時代をリアルに生きた人たちがまだまだいて、その人たちに自分の「歴史観」をさらすことになってしまうという恐怖がある。
  3. 先行実践が少ない。小学校でも中学校でも現代史は、戦争が終わったらそこから尻すぼみになってやるか、公民とドッキングさせてやってしまうことが多く、本気で行っている実践が、あまりに少なすぎる。
  4. 政治史の概略中心となってしまう危険性もある。

 特に、未だにその時代をリアルに生きていた人たちに対して、1985年に生まれた自分が、1960年代や70年代、80年代を語るわけで、そんなのリアルに生きていた人から学んだ方がよっぽど説得力があるはず。
 でも、古市憲寿さんや佐藤信さんのような1980年代生まれが盛んに論壇に出て、世代論や1960年代論を論じ、社会学を中心に一定の評価を得ているのを見ていると、1980年代生まれだからこそ、客観的に論じられる何かがあるんじゃないか、とも思う。
 その一方、彼らが評価を得ているのはあくまでも「社会学」の分野の話であり、純粋な歴史学の世界で、僕の現代史は絶対に評価を得ないだろう。






 っていうか、最近ふと思うのは、歴史学の人間は、現代史を客観的に論じることができていないのではないか、ということ。
 彼らにとって、戦後史とは、ざっくりと乱暴な言葉で言うと、「戦争は二度とご免だ、平和を守るために国家に対抗するための歴史」だし、「人々の言葉を無視して、権力を行使してくる国家や権力に対する抵抗史」っていう側面が強いから、どうしても、感情が前に出てきて、その感情に基づいた論理で歴史を語るから、僕ら1980年代生まれの人にとってはもちろん、今を生きている彼らの認識や感じ方との「ずれ」が生まれているような気がする。





 その「ずれ」を「ずれ」と感じないまま教えているから、生徒にとっては、歴史認識や価値の「押し付け」になっているような気がする。





 もちろん、戦争は絶対にあってはいけないことだし、国家の暴走に対して、人々が声をあげなくてはいけないことは、すごく大事なことだとは思う。




 思うけど、現代史で教えるべきはそうじゃないんじゃないかな、と僕は思う。




 むしろ岩波新書のやつみたいに、1970年代とは何だったのか、1980年代とは何だったのか、をきちんと分析し、それが今とつながっていること、これを教えていかなくてはいけないんだと思う。



 話がなんだか脱線しちゃったけど、とにかく僕は個人的には怖い。特に歴史学の人たちが現代史を「個人」や「集団」のようなミクロスケールでとらえることに強くこだわっている中、紋切り型で、「○○年代はこんな時代だ」と自分の歴史解釈を教えることへの怖さ。
 でも僕は、そうしないと分からないことがたくさんあると思う。そのために、もう少し教材研究してみようと思います。