青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

今日思ったこと

 考えてみれば、小学校や中学校の先生に「でも」「しか」教師で教師になっている人って、そうそういないと思う。
 僕の出身大学は、半分が小学校課程だし、だいたい毎年6割ぐらいの人が、小・中・高の教壇に立つ。
 みんな理想をもって、みんな希望をもって教壇に立ち、初めての担任となる。
 ところが現実はどうだ。今の子どもは、昔みたいにルールはルールだから従え!なんて厳しいことはできないし、そもそもうちの大学の学生はそんなことは教わらない。むしろ、常に子どもを観察し、子どもの立場にたってものを考えなさい、と教えられる。ところがどうだ、今度は子どもの立場にたって考えれば、あっちの価値観とこっちの価値観がぶつかりあい、その仲裁をしなくてはいけなくなる。あっちの立場を立てれば、こっちの立場の子が文句をいい、今度はこっちを立てると、今度はあっちが保護者に自分の主張だけを伝え、親が怒り出す・・・。
 担任をもって初めてわかったことは、教育現場は、本当に「同時多発テロ」だと。私は戦場の真っ只中にいるな、と。これまでの2年間の経験は本当になんだったんだ、って思うくらい。去年までは補給部隊で戦闘にはあまり参加していなかったけど、今年からは戦力として銃を持ち、戦場に出ているんだ、と。
 はい、例えがよくないですね、すいません。m(_ _)m 




 公立校での講師経験もないまま採用され、いきなり担任を持ち、何も方針もないままに、子どもをひたすら観察したり、子どもの言い分を信じているだけじゃ、この世界はやっていけない。でも、だからといって、私は目の前にいる子どもたちのことが好きだから厳しくはできない、そのギャップと、毎日起きる小さな問題の多発が、教師の心を摩耗させ、麻痺させていくわけです。
 すると、心に余裕が亡くなってきます。これが「心を亡くす」、「忙しい」状態です。忙しい状態だと、どうしても対応が手前味噌になってしまい、明確な処方箋をうつことができなくなります。そして問題がさらに積み重なっていく・・・。このスパイラルによって、教師は疲弊していくわけです。
 実際僕も、担任初期は問題児ばかりでした(今は多くが進路変更してしまいましたが)。だから、今だから言いますが、教師失格かもしれませんが、僕はそういう子たちとわざと距離をおいて、付き合わないようにしていたかもしれません。そうでもしないと、自分の心が本当にくさってしまいそうだったので。悔しいけど、これが現実ですよ。





 でも、これを解消する方法が決してないわけではありません。それは、自分の考えにいかに多くの賛同者を集め、チームで動けるか、だと思います。
 つまり、いい教育のためには、子どもを変えようとするのではなく、まずは、大人(先生)を変えていくことが一番大事だと思います。
 だから、チームで動ける学年、組織は非常に強い。逆に、それが脆弱だとどうしても生徒になめられてしまいます。子どももバカじゃないので、大人の様子を常に観察しています。どんなに変な基準であっても、基準が明確な方が、子どもは大人の言うことをしっかりと聞いてくれます。
 それと、組織で方針ができていれば、後はみんなが同じことをいうので、ぶれることなく子どもも進んでいきます。子どもは大人よりも未完成な存在だから、予期しない方向に行きやすいもの、だととらえないと絶対に痛い目をみます。





 だから、今教師を目指している人に伝えたいのは、
 1.子どもには常に明確な基準を示してあげること。その基準にあっていれば褒め、あっていなければ叱ることをいとわないこと。
 →そもそも、子どもは未完成な存在であることを自覚しないといけない。少なくとも先生として前に立っている以上は、ある分野においては、子どもより「先を生きている」「完成された」存在であることを求められる。
 2.子どもを動かすためには、まず教師を動かすこと
 →飲み会でもいいのだが、そうではない場で、情報共有をしたり、学年間で目標を共有することが重要。ただし、目標は必ず共有した人みんなが実行しなければならない。失敗してもいいから、実行しないといけない。誰か一人抜けがけをして、「いい人」ぶった地点で終了。子どもには響かない。







 最近は、これを常に思うね。